こんにちは、H.Châteauです。いきなりですが、ハイドンのディベルティメントをご存知でしょうか?ディベルティメントとは喜遊曲と訳され、貴族の社交や食卓、娯楽や祝賀のBGMとして演奏されていた明るい曲です。ハイドン自身ディベルティメントの名がつく曲を161曲ほど作っているようですが、中でも木管奏者が「ハイドンのディベルティメント」と言われて思い浮かべるのはホーボーケンによる作品番号Hob.II:46のB-durの曲です。このディベルティメントは木管五重奏を嗜む方には入門曲として、ブラームス好きな方には「ハイドンの主題による変奏曲」の主題が含まれる曲として知られています。
実は原曲は木管五重奏ではないってご存知でしたでしょうか?さらに、このディベルティメント自体ハイドンの作品ではないらしいというのもご存知でしょうか?このことについて詳しく知りたいと思い調べたところ、ほとんどが「~らしい」という伝聞的な書き方で、詳しく調べた情報が見つかりませんでした。これは文献等を調べるしかないと思い調査しましたのでご報告いたします。
なお、私は木管五重奏を「管楽五重奏」と呼ぶ方が良いと考えており、他の記事では「管楽五重奏」での表記を増やしていますが、今回の内容を広く知っていただきたいため(検索対策のため)あえて「木管五重奏」のまま表記しています。ご了承ください。
●本記事では18~20世紀の資料や文献・専門家への聞き取りをもとに情報を整理していますが、パブリックドメインまたはオープンアクセスとなっていない資料はアクセスできませんでした。このため、一部の古い文献や最新の研究内容まではカバーできていません。
●文献の翻訳はGoogleやDeepL等の機械翻訳に頼っております。必ず読み間違いや勘違いがありますので、何かに引用される際は必ず原文をご確認ください(意訳文の下に原文を掲載しています)。
●参考文献の原文まで含めると10万文字を超える非常に長い記事です。お時間に余裕のない方は目次の★(各種まとめ)だけご覧ください。
目次
- ◆一応、簡単なハイドンの紹介
- ◆曲の紹介
- ◆原曲の調査(IMSLPスコアとパート譜)
- ◆ハイドン作に関するインターネット調査
- ◆ハイドン作に関する文献調査
- ●1939年(J. P. ラールセンの論文)以前
- (1) J. N. フォルケル: Musikalischer Almanach für Deutschland(ドイツの音楽年鑑)(1782, 1783, 1784, 1789)
- (2) J. エルスラー: the Haydn-Elssler catalogue(エルスラー作品目録)(1805)
- (3) G. A. グリージンガー: Biographische Notizen über Joseph Haydn(ハイドン伝)(1810)
- (4) E. L. ゲルバー: Neues historisch-biographisches Lexikon der Tonkünstler Bd.2(1812)
- (5) F-J. フェティス: Biographie universelle des Musiciens(万国音楽家列伝 第2版, 第4巻)(1862)
- (6) E. ハンスリック: Neue Freie Presse 1873/11/8の記事(1873)
- (7) C. F. ポール & H. ボートシュティーバー: Joseph Haydn(ヨーゼフ・ハイドン)(1878-1882)
- (8) F. ニークス: Zeitschrift der Internationalen Musikgesellschaft(国際音楽協会ジャーナル)(1904)
- (9) H. ハセ: Joseph Haydn und Breitkopf & Härtel(ヨーゼフ・ハイドンとブライコプフ&ヘルテル)(1909)
- (10) E. ルンツ: Haydn-Zentenarfeier : verbunden mit dem III. Musikwissenschaftlichen Kongress der Internationalen Musikgesellschaft : Programmbuch zu den Festaufführungen(1909国際音楽学会議)(1909)
- (11) A. シュネリッヒ: Joseph Haydn und seine Sendung(ヨーゼフ・ハイドンとその使命)(1922)
- (12) C. F. ポール & H. ボートシュティーバー: Joseph Haydn(ヨーゼフ・ハイドン, 補筆)(1927)
- (13) K. ガイリンガー: Haydn, a creative life in music(ハイドン, 音楽の創造的人生)(1932→1946)
- ●1939年(J. P. ラールセンの論文)以降
- (14) J. P. ラールセン: Die Haydn-Überlieferung(ハイドン伝承)(1939)
- (15) H. C. R. ランドン: Saturday Review of Literature “True and False in Haydn.”(ハイドンの真実と嘘)(1951)
- (16) Dictionary of Music and Musicians (Grove V)(グローヴ第5版)(1954)
- (17) A. v. ホーボーケン: J. Haydn, Thematisch-bibliographisches Werkverzeichnis(ホーボーケン作品目録)(1957)
- (18) H. C. R. ランドン: Haydn: Chronicle and Works(ハイドン、年代記と作品)(1976-1980)
- (19) ヨーゼフ・ハイドン研究所: Haydn Werke(ハイドン全集)(1958~現在まで)
- (20)Wind ensemble sourcebook and biographical guide(1997)
- (21) A. ラーブ: Editionen der Werke Joseph Haydns(2015)
- 日本のハイドン研究者(感謝も込めてご紹介)
- ★文献調査等のまとめ
- ●1939年(J. P. ラールセンの論文)以前
- ◆すべてのまとめ
- ◆残された謎 Chorale St. Antoni
- ◆おわりに
◆一応、簡単なハイドンの紹介
冒頭に「ハイドンの作品ではないらしい」と書いていますが、その理由を後々説明するためにもハイドンのことをおおまかにご紹介します。
オーストリアの古典派の作曲家、ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732年 – 1809年)は言わずと知れた交響曲の父です(誰が言い始めたのか調べてみたらハイドン存命中から「パパ・ハイドン」という愛称があったようで、交響曲の父という呼び方も当時からあったようです(WikipediaEN: Papa Haydn)。)
彼はオーストリア東部のウィーンの南の都市アイゼンシュタットを支配していたエステルハージ家(ハンガリー系貴族)に29歳頃から仕えていました。いわゆるお抱え作曲家兼楽団運営長(宮廷楽長)という立場で30年弱務めました。宮廷楽長は多忙ですが、アイゼンシュタットの主要な屋敷であるエステルハージ宮殿(Schloss Esterházy)には今ではハイドンザール(The Haydnsaal)と呼ばれる豪華絢爛なホールがあったように、音楽に従事するには申し分ない環境だったと思われます。また、ハイドンが仕えていた頃は1年の大部分をハンガリーのフェルテード(アイゼンシュタットからノイジードル湖を挟んで南東側)にあるエステルハーザ(Eszterháza)で過ごしていましたが、そこには2つのオペラハウスがあり、ハイドンは自身のオペラや他の作曲家のオペラを数多く上演し、多くの場合年間100回以上の公演を行っていたということです。
忙しいながらも充実した音楽活動ができる環境にあったため、確実に自作と分かる曲でも生涯で700曲以上作曲し、その実績と名声から多くの弟子がいたり(マリアンネ・マルティネス、イグナツ・プレイエル、一応ベートーヴェン、ジョン・ウォール・カルコット、アントニン・ヴラニツキーほか参考)、モーツァルトと友好関係を築いたりできました。
◆曲の紹介
●どんな曲?
1780年頃にJ. ハイドンが作曲したと考えられているB-durの4楽章構成の小品です。演奏時間は10分前後です。ホーボーケン番号はHob.II:46です。
一般的にはJ. Haydn / Divertimento B-dur Hob.II:46のように記載されます。
五重奏版がもっとも有名でYoutubeにもたくさん掲載されており、プロからアマチュアまで演奏するとてもポピュラーな曲です。
IMSLP/ Divertimento in B-flat major, Hob.II:46 (Haydn, Joseph)
第二楽章が「Chorale St. Antoni(聖アントニのコラール)」となっており、ブラームスが自作の「ハイドンの主題による変奏曲」のテーマとして用いました。1870年頃、ウィーン学友協会の司書でありブラームスの知人であったカール・フェルディナント・ポール(Carl Ferdinand Pohl, Wikipedina英,独)がこの曲の写譜をブラームスに見せ、1873年にピアノ版及びオーケストラ版が作曲されました。なお、C. F. ポールはモーツァルトやハイドンに関する書籍を複数出版している音楽学者でもありました。
IMSLP / Variations on a Theme by Haydn, Op.56 (Brahms, Johannes)
●木管五重奏は編曲版
あまりにも木管五重奏で「ハイドンのディベルティメント」として有名(最も有名な楽譜はBoosey&Hawkes社の表紙が青色の編曲楽譜)ですが、木管五重奏は編曲版であり、原曲は別の編成です。あまり難易度が高くなく比較的初心者の頃に取り組むことが多いため、意外と皆さん編曲楽譜だと気づかないことが多いです。
上記のBoosey&Hawkes社のページにもArranger: arr. Perryと書かれています。
この木管五重奏版の編曲者はアメリカの編曲家・編集者であるハロルド・ペリー(Harold Perry, 1895-1956)です。H. ペリーはさまざまな曲を編曲していますが、特にホルンの編曲作品が多かったのでもしかしたらホルン奏者だったかもしれません。H. ペリーのディベルティメントの編曲年は1942年とされています。第二次大戦中ですね。原曲の作曲時期は1780年頃といわれていますので、約160年も後の編曲なのです。ちなみにHob.II:46というホーボーケン番号ができたのはさらにそのあと(1957年)です。
そもそも木管五重奏の形式が一般的になったのはベートーヴェンと同時代(=ハイドンより後の時代)の作曲者アントン・ライヒャの功績であると言われており、ライヒャの木管五重奏の作曲時期は1810年代以降でした。それまではフルートは比較的貴族の楽器でオーボエやホルンはどちらかというと庶民(や宮廷楽団や軍楽隊)の楽器と考えられていたため、管楽合奏のときに室内で一緒に演奏するという考えがあまりなく、室内管楽合奏の多くは「オーボエ・(たまにクラリネット)・ファゴット・ホルン」を組み合わせたハルモニームジークの編成であり今の「フルート・オーボエ・クラリネット・ホルン・ファゴット」という木管五重奏の形態はハイドンの時代には少なかったのです。ハイドンと同時期に活躍していたモーツァルトもフルートを入れた管楽アンサンブルは作っていませんでした。少なくともこの曲が作曲された1780年頃は現代の木管五重奏の編成は一般的ではなく、むしろ6重奏や8重奏のハルモニームジークに人気がありました。
◆原曲の調査(IMSLPスコアとパート譜)
原曲は著作権が切れパブリックドメインとなっているため、IMSLPで楽譜や原稿が誰でも自由に閲覧できます。この「ハイドンのディベルティメント」Hob.II:46の楽譜もIMSLPで見ることができます。
IMSLP/ Divertimento in B-flat major, Hob.II:46 (Haydn, Joseph)
IMSLPのページを開いてみるといきなり表題部分に「Authorship Note
Haydn’s authorship of this work is disputed.」(著作者について。この作品がハイドンの著作であるということには異議がある。)と記載されています。IMSLPでは「ハイドン作かは疑わしい」としています(ただし特に根拠は記載されていません)。
さらにページ下部には以下の注釈が書かれています。
初版は1782年に「Divertimento No.1~6」(逸失)としてブライトコプフ&ヘルテルから出版された。この版はウィーン学友協会アーカイブにある初期版から複製された原稿スコアに基づいている。現在ではハイドンが作曲したと誤って考えられているが、弟子のイグナツ・プレイエルによって書かれた可能性がある。
現在私たちが親しむ「ハイドンのディベルティメント」は6作品のうちの1作品で、かつハイドンの作品ではない可能性があり、真の作曲者はI. プレイエルかもしれないと書かれています(ただし、こちらもハイドンの真贋と真の作曲者について根拠は明記されていません)。
ハイドンの真贋の根拠を追う前に、まずはIMSLPのスコアとパート譜を精査してみましょう。
●スコアとパート譜
IMSLPでは2020年時点でスコアとパート譜が閲覧できますが、実はスコアとパート譜は全く別のものでお互い対応していません。しかし、共通点は楽器が8本使われていることです。ディベルティメントHob.II:46は管楽八重奏が原曲だったのです。
八重奏の演奏は以下をお聞きください。
スコアはオーストリア系アメリカの音楽学者カール・ガイリンガー(Karl Geiringer, 1899-1989)が1932年に編集したもの、パート譜はManuscript(原稿・手稿・写稿の意)とされています。
– IMSLPスコア(K. ガイリンガー編)
カール・ガイリンガー(Karl Geiringer, 1899-1989)は1899年にオーストリアで生まれ、ウィーン大学で音楽史やハンス・ガルの下に作曲を学び、音楽学のPh.Dを取得しました。
その後、1930年(31歳頃)にウィーン学友協会のアーカイブの学芸員となり、多くの西洋音楽の一次資料に触れる機会を得て音楽学の知見を高め、1932年(33歳頃)にはハイドンに関する著作を、1936年(37歳頃)にはブラームスに関する著作を出版し、その権威が認められていきました。その後もバッハ・ハイドン・ブラームスに関する著作を出版しております。
K. ガイリンガーが楽友協会に在任していたときは、ハイドンの死後行方不明だった頭骨が再度埋葬されるまで学友協会に保管されている期間(ハイドンの頭骨について詳細はWikipedia/Haydn’s headやWikipedia/フランツ・ヨーゼフ・ハイドンを参照)であり、ガイリンガーは来訪者に頭骨を見せていたようです(頭骨は1954年に再度埋葬)。
1938年にナチスのオーストリア併合により、両親がユダヤ系だったK. ガイリンガーはイギリスに亡命し、その後1940年にアメリカに向かいました。アメリカでは、後にハイドン研究で有名になるH.C.ロビンス・ランドンを教えています。
バッハやハイドンやブラームスに関する研究に優れ多くの著作を持ち、イギリスやアメリカの音楽大学の教授職についたりアメリカ音楽学会の会長に2度つくなど、音楽学の分野で多大な功績を残しました。1989年(平成元年)に亡くなりました(以上参考:WikipediaEN,J-stage論文)。
IMSLPのスコアは彼が1932年(ハイドンに関する著書を書いていた頃と同時期)に編集したもので、編成は2Ob,2Hr,3Fg,C.Fg(コントラファゴット)の8重奏です。ハイドンに関する著書と同時期の編集のため、ハイドンの作品だと信じて作られたスコアでしょう。
– IMSLPパート譜(Manuscript)
IMSLPに掲載されているパート譜は楽譜が手書きで、楽章の切れ目をフェルマータで示すなどの昔の楽譜の書き方をしています。編成もK. ガイリンガーのスコアとは異なっており、2Ob,2Hr,3Fg,Sr(Serpent, セルパン)となっています。
くねくねした蛇(serpent,(英)サーペント/(仏)セルパン。仏語読みが由来)のような木製の管体を持ち、音孔で音を変えられる金管楽器です。当初は教会音楽の低音補強に用いられ、軍楽隊等の金管楽器の低音楽器としても使われるようになりました。
オーケストラでは当初フランスで使われ、1600年代~1700年代にM-A. シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier)S. ブロッサール(Sébastien de Brossard)、A. グランディ(Alessandro Grandi)、L. グレノン(Louis Grénon)の作品で使われ始めました。さらに1755年頃からはJean CombesやF-J. ゴセック(François- Joseph Gossec)によりオーケストラ内でファゴットと同じ役割や金管楽器の役割として使われています。1780年にはフランスのImbert de Sensがセルパンのメソッドを出す等、ドイツやオーストリアよりも特にフランスで使用されていたようです(参考:serpent.instrument)。
フランス以外でも軍楽隊用音楽ではハイドンのいくつかの行進曲(行進曲一覧)で使われており、ベートーヴェンの「軍楽隊のための行進曲」にもセルパンが用いられています。古典派以降のオーケストラにおいては、メンデルスゾーンの交響曲第5番や初期のベルリオーズの幻想交響曲、マイアベーアのオペラやワーグナーのオペラ「リエンツィ」等で度々用いられました。
セルパンは改良されてファゴット型の管体にしセルパン等金管の吹き口をつけたバスホルンやロシアンバスーン(参考:BerliozHistoricalBrass,武蔵野音大)が使われていましたが、すぐにオフィクレイドに代わり、そのオフィクレイドも最終的に金管楽器低音属はチューバやユーフォニウムに取って代わられました。現代では主に古楽で活躍しています。
ちなみに、ベルリオーズがハインリヒ・ハイネに送った手紙に「ドイツのブランズウィックのオーケストラがロシアンバスーン(セルパンの後継楽器)のことをコントラファゴットと呼んでいてがっかりした」等の記載があります(ベルリオーズ回想録仏語参照)。ベルリオーズ自身は違いを認識していましたが、ドイツ圏ではファゴット型低音金管楽器をそう呼んでいた時期があるようです。
手書き・楽譜の書き方・セルパンの使用など、ManuscriptはおそらくK. ガイリンガーのスコアよりも古いものだとは思われますが、その正体がはっきりしません。
Manuscriptには原稿・手稿・写稿の意があり、原稿の意味だとすると「ハイドンの原稿」となり「ハイドン作かは疑わしい」と矛盾します。果たして何でしょうか?
●Manuscriptは写譜
直筆譜か写譜か、中身を調べてみました。
IMSLPのManuscripはパート譜だけで、スコアがありません。表紙にはgius Haydnと書かれています。これだけみるとハイドンの作品のように思いますが違うのでしょうか。
中を見ていくと、直筆原稿にしては綺麗すぎる気もします。また、Fagotto 2ndパートの4mov.に小節の抜けがあったようで後から書き足して修正したりしており、原譜ではなく写譜のような気がします。
その他、Fagotto obgまたはobl(Fagotto obligato)と書くはずのところがFagotto obzのように見えたり、本人が書いたにしては流石に杜撰な気がします。
以上から考えても、少なくとも直筆原稿ではなく写譜のようであることは伺えます。その他にも手掛かりがないか探してみました。
表紙の中央の楕円スタンプをよく見るとCHOR ARCHIV / EXNERSCHE SCHENKUNG / ZITTAUの文字が見えます。
これは、ドイツのZittau(ツィッタウ)にあるCHOR ARCHIV(教会資料館)に、August Christian Exner (1771-1847) が寄付したという意味だと思われます。
August Christian Exner(アウグスト・クリスティアン・エクスナーまたはエクスネル)については情報が少ないですが、ブラームスにChorale St. Antoniを教えたC. F. ポールの書籍「ヨーゼフ・ハイドン」(Joseph Haydn (Große Komponisten, 1878))に以下の記載があります。A. C. エクスナーは裕福な商人で、ハイドンを崇拝しコレクションした人物のようです。
真のハイドン教団を追求した男たちの中には、ボンのマスティオーやザクセン州のツィッタウのエクスナーなどがいました。二人ともライブラリ(図書館または資料館)を構築して、お気に入りの作曲家の曲で手に入るものはすべて買い占めました。マスティオーは、ハイドンと活発にやり取りをしていました。
ケルン選帝侯のフォン・マスティオー・ホフカンメラートは、ユンケラート城(ブランケンハイム群)で1726年に生まれましたが、若い頃から半盲でした。彼は音楽に唯一の喜びを見出し、ピアノ、バイオリン、チェロを弾き、一般的な管楽器の扱い方も知っていました。彼の5人の子供たちは全員音楽教育を受けており、特に娘はボンでもトップクラスのピアニストでした。毎週フォン・マスティオーはハウスコンサートを行い、彼は自分の豊富な音楽コレクションを提供しました。”彼はI. ハイドンの崇拝者であり、彼と手紙を交換していた “とネーフェはボンから報告しています。 フォン・マスティオーは1798年にボンで死去しました。
裕福な商人であり交易商でもあったアウグスト・クリスチャン・エクスナーは、オーケストラ作品のために自分の音楽ホールを作ったこともありました。彼の豊かな音楽遺産は息子や相続人により大事に保存され、故郷の教会(Chor)に寄贈されました。
表紙の一番下に押されている円スタンプにはSächs. Landes-Bibl.と書いてあり、これはドイツのドレスデンにあるザクセン州立図書館(Die Sächsische Landesbibliothek, Staats- und Universitätsbibliothek Dresden=SLUB-Dresden)を示しています。
IMSLPにある資料の原本は現在このSLUB-Dresdenに保管されています。SLUB-Dresndenに記載されている詳細(1,2)もご参照ください。
以上から、IMSLPに掲載されているパート譜はおそらくA. C. エクスナー(1771-1847) がハイドンのものと信じて購入しコレクションした楽譜で、死後地元の教会に寄贈され、その後の経緯は不明ですが現在ではザクセン州立図書館に保管され(インターネット上で公開され)ているものだと考えられます。
Hob.番号を作成したA. v. ホーボーケンも1957年の自書で「ZiEx(Zittau Exner Collectionの意)に唯一保存されている写譜」としています。
IMSLPに掲載されているものは写譜で、どうやら原本は見つかっていないようです。
1932年に編集されたK. ガイリンガーのスコアよりもmanuscriptの方が時代が古いことはわかりました。また、このことからセルパンを用いるのが元々の編成だったといえます。
しかし、古い写譜にハイドン作と書いてあるのに「ハイドン作かは疑わしい」のでしょうか。「写譜だから」がハイドン偽作の理由になるのでしょうか?
●6つのDivertimento
さて、先にIMSLPにあった「ハイドンのディベルティメント」は6作品のうちの1作品という情報も深堀りしておきたいと思います。
「ハイドンのディベルティメント」はIMSLP下部にも記載があるように別名として「Feldparthien」とも呼ばれていました。英語にすると「Field Partita(フィールド・パルティータ)」…つまり屋外の組曲・野外の組曲というわけです。その名のとおり、当時貴族の社交の場などでBGMとして流行していたハルモニームジークの形態をとっています。
このシリーズは他に5曲あり、Hob.II:41-46の全部で6曲です(IMSLP)。「6つのDivertimento(6 Divertimenti)」「6つの屋外組曲, 6つのフィールドパルティータ(6 Feldparthien)」と呼ばれることもあります。すべてManuscriptが残っており、編成は八重奏のハルモニームジークです。
IMSLPではHob.II41-46の順で纏められていますが、Hob.番号は1957年にジャンル・編成で一律に区分したものであり、歴史的な作曲順はあまり考慮されていませんのでパート譜に基づいてHob.II:46が含まれる一連のDivertimentoの情報を以下にまとめました。
「ハイドンのディベルティメント」として知られているのは6つのDivertimentoのうちの1曲目(Divertimento I)でした。このシリーズの特徴として、楽曲の一部にタイトルのついた曲が使われています。
6つのDivertimentoのmanuscript一覧
タイトル | Hob.番号 | 編成 | 調性 | 使われた歌・楽曲 |
Divertimento I | Hob.II:46 | 2Ob, 2Hr, 3Fg, Sr | in Bb | 2mov “Chorale St: Antoni” Youtube |
Divertimento II | Hob.II:42 | 2Ob, 2Cl, 2Hr, 2Fg | in Bb | 2mov “Dolcema l’amour”Youtube |
Divertimento III | Hob.II:41 | 2Ob, 2Cl, 2Hr, 2Fg | in Es | |
Divertimento IV | Hob.II:45 | 2Ob, 2Hr, 3Fg, Sr or Fg 4 | in F&Bb | 2mov “aria la vierge marie”Youtube |
Divertimento V | Hob.II:43 | 2Ob, 2Cl, 2Hr, 2Fg | in Bb | |
Divertimento VI | Hob.II:44 | 2Ob, 2Hr, 3Fg, Sr | in F |
タイトルとHob.番号は表のとおり順番が入れ替わっておりました。また、編成が微妙に異なっています。
この6つのDivertimentoについては上表のとおりDivertimento II, III, Vにクラリネットが含まれていますが、これについてIMSLPには「2 clarinets added by Pohl (Wilhelm?)」と書かれており、クラリネットはポールという人物によって追加されたとされています。
ウィーン楽友協会のアーカイブを見てみますと出版者がPohl(Copyist)となっています。さらに検索するとこのPohlはブラームスにディベルティメントを教えたC. F. ポールのことであるとわかりますが、「2 clarinets added by Pohl (Wilhelm?)」が何を意味しているのか詳細がわかりません。 (詳細は後の文献調査で判明しますが、先に記述しますとこの記載は間違いで、A. v. ホーボーケンのカタログによるとDivertimento I(Hob.II:46)の8重奏にC. F. ポールが2本のクラリネットを追加した10重奏版があるらしいです。)
IMSLPでは「ハイドンのディベルティメント」(Hob.II:46)がハイドン作かは疑わしいとされていますので、この一連の「6つのDivertimento」も同様にハイドン作かは疑わしいものとなります。
Divertimento I (Hob.II:46)
Divertimento II (Hob.II:42)
Divertimento III (Hob.II:41)
Divertimento IV (Hob.II:45)
Divertimento V (Hob.II:43)
Divertimento VI (Hob.II:44)
なお、Feldparthien等の名前のついたハイドンの曲は他にもあり、ハイドンの真作と考えられているものもあります(Hob.II:3,7,15,23等。編成は2Ob, 2Hr, 2Fgの六重奏。)。
●当時のブライトコプフのカタログに掲載されている
IMSLPには初版はブライトコプフ&ヘルテルから出版された(First published by Breitkopf & Härtel in 1782 as No.1 of 6 Divertimentos (apparently lost).)と書かれておりました。
この情報はすでに誤解があり、ブライトコプフ社は1719年に創立していますが(Breitkopf.com)ヘルテルに経営が引き継がれたのは1795年(Wikipedia/ブライトコプフ・ウント・ヘルテル)ですので、1782年に出版だとすると厳密には「ブライトコプフ&ヘルテルから」ではなく「ブライトコプフから」になります。
この情報は6つのDivertimentoが1782~1784年のブライトコプフのカタログに掲載されていることに由来しているものと思われます。実際にDouglas Yeo氏のWebsiteには1782年~1784年のブライトコプフのカタログの表紙と内容の画像が掲載されております(Internet Archiveやブライトコプフ&ヘルテル社のホームページ等では見当たりませんでした)。
これを見ると、ブライトコプフのカタログには当時から6つともIMSLPのManuscriptどおりの編成で掲載され、さらにハイドン名で出されていたことも確認できます。
この「ブライトコプフのカタログ」は実は後々も出てくるワードなのですが、その内容はインターネット上ではDouglas Yeo氏のウェブサイト上でしか見つけられておりません。ただ、1966年に「The Breitkopf Thematic Catalogue: The Six Parts and Sixteen Supplements, 1762-1787」という書籍が発行されているようで、もしかしたらこの中に掲載されているかもしれません。
1782-1784年のカタログはネット上で見られませんが、1847, 1885, 1902年のカタログはIMSLPのBreitkopf und Härtelのページの下部から閲覧できます。
IMSLPでは初版は1782年にブライトコプフから出版されたと言い切っており、その1782-1784年のブライトコプフのカタログにハイドン名で掲載され、6つのDivertimentoの編成も現在残されている写譜と全く同じです。それなのになぜ「ハイドンの作かは疑わしい。プレイエルの作品かもしれない」としているのでしょうか?根拠はあるのでしょうか。
◆ハイドン作に関するインターネット調査
1782-1784年のブライトコプフのカタログにハイドン名と編成で掲載されているのに、なぜハイドン偽作といえるのでしょう?IMSLPには根拠が掲載されていなかったため、根拠を求めてインターネットの海に飛び込みました。
●インターネット上の情報まとめ(2020.5月時点)
先に調べた結論から述べますと、インターネットでは作曲家が誰かについて「ハイドン」「ハイドンではない」「ハイドンかは疑わしい」「弟子の作品だ」と情報が入り乱れている状況で、ほぼどのサイトも根拠を述べていませんでした。何が正しいのか全く分かりません。そこで、まず誰がどのように言っているか分類しました。
ハイドン説(ただし、特に「絶対にハイドン作だ」と断定しているわけではない)
●Boosey & Hawkes (London)
●市原満.com
ハイドンではない説(断定・ほぼ断定)
●Joseph Haydn-Institut: “Hob.II:46はハイドンの作品だと勘違いされている有名な例である”
●Wikipediaドイツ語(Variationen über ein Thema von Haydn): “それらはおそらくヨーゼフ・ハイドンに誤って帰属されたと考えられている。(中略)コラールはディベルティメントの作曲家が作曲したものではないかもしれない。エデュアルド・ハンスリックは、コラールはもともと巡礼の歌であると想定していた。さらに、コラールは記念日にパドヴァの聖アントニを称えて巡礼者(ハンガリー西部(現在のブルゲンラント州)の村からどこかの聖アンソニー礼拝堂への巡礼を行った際)によって歌われた可能性があると考えられている。”
ハイドンではないが編集者としておこう説
●Douglas Yeo Trombone Web Site
ハイドンかは疑わしい派(弟子作説、一部他作説含む)
●IMSLP: “この作品に関するハイドンの著作権には異議がある。…現在はハイドンに帰属していると誤って考えられているが、ハイドンの弟子であるイグナツ・プレイエルによって書かれた可能性がある。”
●Libraria Musica: “しかし、この曲自体ハイドンの作かどうかは議論がありまして、ハイドンの弟子プレイエルのものとする説などがあります。また、ハイドンの楽譜の第2楽章にも「コラール聖アントーニ」と記載されていますが、この由来についてもよくわかっていません。古い巡礼歌であるとか、ハイドンの時代に良く知られた旋律であったともされ、事実バロックから古典派にかけての何人かの作曲家がこの旋律を使っているとのことです。”
●Wikipedia日本語(ハイドンの主題による変奏曲): “ディヴェルティメントそのものがハイドン作でないか(イグナツ・プライエル作という説がある)、ディヴェルティメントがハイドン作であっても主題であるコーラルはハイドン作のものではなく、古くからある賛美歌の旋律を引用したものと考えられている”
●Wikipedia英語(Variations on a Theme by Haydn): “ディベルティメントはおそらくイグナツ・プレイエルによって書かれたといくつかの情報源が述べているが、これは確立されていない。また、ディベルティメントの作曲家が実際に「聖アンソニーのコラール」を書いたのか、それとも単に未知の古いテーマを引用したのかも疑問として残っている。これまでのところ、「聖アンソニーのコラール」についての言及されたものはない。”
●Zauberfloete 通信: “オリジナルの草稿は発見されておらず、ハイドンの真作かどうかは議論が分かれているという。”
●新交響楽団:”このディベルティメントが本当にハイドンによるものかどうかは議論が分かれている。これはディベルティメントのオリジナルの草稿が見つかっていないためで、出版譜は誰かの手による写譜稿(パート譜)が元となっている。また、ディベルティメントの第2楽章の冒頭には作曲者自身によって「コラール聖アントニー」と記されていることから、たとえディベルティメントそのものがハイドン作であったとしても、第2楽章の主題自体は古い巡礼歌からの引用である可能性が高いようだ。”
●Villa Musica: “構成のシンプルさは1780年代のハイドンにはあまり合わない。”
インターネットで調べてみると、作曲者について「どうやらハイドン作ではなさそうだ」と書かれていることが多いですが、みなさん「最近の研究では」「~のようだ」のように書いており確定的な情報源がなく出典がみあたりません。半ば都市伝説のように広まっています。
さらに、「イグナツ・プレイエル(Ignaz Pleyel)の作品ともいわれる」「第二楽章の聖アントニのコラールは巡礼歌からの引用らしい」という記載も多いですが、こちらも伝聞的で決定的な証拠が明記されないまま広がりを見せています。
ハイドンの作品ではなさそうだが、全体的に証拠がよくわからず、本当の作曲者が誰かもよくわかっていないという状況でしょうか。
1757年オーストリア生まれのイグナツ・プレイエル(Ignaz Josef Pleyel, イグナツ・プライエル, イニャス・プレイエル等)はハイドンの25歳下の弟子です。15歳の頃からハイドンの生徒だったようで、プレイエルの13歳下のベートーヴェンとは異なりハイドンとは良好な関係を築いていました。ハイドン同様に多作家で、交響曲は41曲、弦楽四重奏曲も70曲近くあり、管楽器のハルモニームジーク作品も少しは作曲しているようです(Youtube)。作曲家としては現在忘れられた存在となっておりますが、40歳で出版社を立ち上げ50歳ではピアノ制作会社プレイエルを設立するなど、企業家としての成功は今でも有名です。プレイエルのピアノはショパンに愛されました。(参考:WikipediaEN,Wikipedia日)
– ハイドンではないかも、と気軽に言える訳(ハイドンは偽作の宝庫)
なぜ皆が確定的ではないにしろ「ハイドン作ではなさそうだ」という可能性を言えるのかというと、どうやらハイドンには数多くの偽作・疑作が存在しているからのようです。
既に偽作と判明したもので有名なものとしては「ハイドンのセレナーデ」(ハイドン→ロマン・ホフシュテッター)や「おもちゃの交響曲」(ハイドン→レオポルト・モーツァルト→エトムント・アンゲラー)があります。その他にも、ハイドン作品だと思われていた管楽八重奏(ハルモニームジーク)のパルティータ(Hob.II:F7)がパヴェル・ヴラニツキーのものだと判明したということもあります。
ハイドンの偽作・疑作が数多くある理由は、6つのDivertimentoのように①時代が古く資料が残っておらず明確な証拠がないことのほか、②当時は著作権の概念が薄く超絶売れっ子のハイドンの名を(場合によっては勝手に)借りて出版することは多かった(ハイドン作品辞典)ことも原因かと思われます。他の偽作については晴天なさん等の詳しいサイトをご覧ください。
– ヨーゼフ・ハイドン研究所(Joseph Haydn-Institut)
インターネット情報の中で、唯一ハイドンではないと断定していたのがJoseph Haydn-Institutによる”Hob.II:46はハイドンの作品だと勘違いされている有名な例である”です。あまりにも断定的だったので気になって調べてみました。このJoseph Haydn-Institutはドイツ・ケルンにあり、日本語では「ヨーゼフ・ハイドン研究所」となります。
ヨーゼフ・ハイドン研究所は、ハイドンの作品の真贋を音楽様式から学者が主観的に判断する方法ではなく科学的に実証する方法を研究した音楽学者J. P. ラールセン(Jens Peter Larsen, 1902-1988)が組織的・継続的にハイドンの学問的校訂楽譜を出版するために1955年に設立した組織です。ハイドン作品のホーボーケン番号を作り上げた音楽学者A. v. ホーボーケン(Anthony van Hoboken, 1887-1983)はこのJ. P. ラールセンの門下です。
2020年現在、ヨーゼフ・ハイドン研究所の学問的責任者にハイドン研究の第一人者A. ラーブ博士(Dr. Armin Raab)がついています。
(以上飯森豊水氏「J.ハイドン研究における近年の変化について」(2017)参照)
つまり、ヨーゼフ・ハイドン研究所は世界最先端のハイドン研究機関なのです。そのような組織が「ハイドンではない」と断定しているのにはなんらかの根拠なり確信があるに違いありません。
ならば聞いてしまえばいいのではないかと思い、疑問をメールしてみました。すると、なんとA. ラーブ博士からお返事をいただきました!
●ヨーゼフ・ハイドン研究所への聞き取り調査
インターネットで調べていた際に生じた疑問点を伺いました(実際の質問は英語です。私の挨拶やお礼等は部分的に省略しています。A.Raab博士の回答は意訳してありますが、原文も併記します。)。
多くの作品が生前にすでにハイドンのものと偽られていました(交響曲180曲以上、ミサ曲200曲以上)。偽作のほとんどはハイドンの(活動)範囲から遠く離れた場所にあることが多く、写譜士のパート譜だけ等の単一の資料だけがあります。(ハイドンが作曲した真の曲以外は、常に独立して資料が保存されていることが多いです。)
この特徴的な状況は Hob. II:41-46でも見ることができます。1800年頃にライプツィヒの写譜士が書いたコピーが唯一残っているだけで、それはハイドンからもプレイエルからもは遠く離れています。(マリオン・F・スコット氏がGrove Dictionary 1954で述べたプレイエルへの帰属は、全く根拠がありません)。現在、このコピーはドレスデンのSLUB-Dresdenに保管されています。
このケースについての情報は、次のハイドンの作品全集を参照してください。「Joseph Haydn Werke(ヨーゼフ・ハイドン・ヴェルケ)」ヨーゼフ・ハイドン研究所(ケルン)編-シリーズVIII第2巻「Bläserdivertimenti und Scherzandi」ソニア・ゲルラッハ校訂-G. ヘンレ(ミュンヘン)1991年出版。ハイドン作ではない “Feldpartiten “については121ページを参照してください。(※おそらくこの書籍)
重要なのは、このような錯誤帰属(ハイドンのものとされたこと)がドイツ中南部のどこか、ライプツィヒあたり(ブライトコプフがこれらのディベルティメントを自社の手書き楽譜のカタログに掲載していたので、ブライトコプフで流通しており購入することができた)で起こったことです。ですから、ハイドンだけでなく他のオーストリアの作曲家も著作者として除外することができます。
これらの作品の起源はフランスにあるのではないかという物的証拠はいくつかあります(セルパンのような楽器の使用法や、いくつかの楽章で引用されているメロディーのタイトル(最も有名なのは「聖アントニのコラール」です)。しかし、その決定的な根拠は全くありません。
A. ラーブ博士、素人の私の質問に真摯に答えてくださり誠にありがとうございました。
★聞き取り調査のまとめ
この聞き取り調査で判明したのは以下の内容です。
- 1939年のラールセンの論文以降、「ハイドンのディベルティメント」を含む6つのDivertimentoはハイドン作曲ではないとされてきた。
- 間違いなくハイドンの作品ではない。
- 現在残っているSLUB-Dresden所蔵譜は1800年頃にライプツィヒの写譜士が書いたコピー譜
- プレイエルの作品の可能性といったのはGrove Dictionary 1954だがその証拠はないし、オーストリアの作曲家の作品という可能性もない。
- 偽作のほとんどはハイドンの活動範囲から遠く離れた場所にあることが多く、写譜士のパート譜だけ等の単一の資料だけがある
- 重要なのは「ハイドンのもの」とされたのはドイツ中南部(ブライトコプフのあるライプツィヒあたり)で起きたこと。
- 起源はフランスかもしれないが根拠資料は全くない
ハイドンのいたアイゼンシュタットと錯誤帰属が起きたライプツィヒは600kmくらい(日本でいうと東京-青森や東京-兵庫くらいの距離)離れていますから、1800年ころの蒸気自動車もなかった時代(自動車の歴史の詳細はWikipedia)に馬車で移動するにしても相当大変だったでしょう。アイゼンシュタットもライプツィヒもそれぞれ当時音楽的都市だったとはいえ、ハイドンの真作だとしたらハイドンから600km離れた都市にパート譜1つしか残っていないというのは確かにおかしいです。
江戸で活躍していたはずの写楽の絵が青森や兵庫の都市で1枚だけ見つかった、という違和感を想像していただけるとわかりやすいかもしれません。
◆ハイドン作に関する文献調査
聞き取り調査で色々教えていただきましたが聞き取り調査では判明しなかった部分もありましたので、一応文献も調べて根拠を確定させたほうが良い気がしました。特に「ハイドンのものではない」としたJ. P. ラールセンの論文が見られればよいのですが…。インターネットで調べられる範囲で過去の書籍・文献を調べてみました。なお、1939年のJ. P. ラールセンの論文以前と以降でハイドン作に関する記述が変わっていますので分けて記載します。
●1939年(J. P. ラールセンの論文)以前
1939年以前はハイドンの作品だと考えられていたはずです。飯森豊水氏「J.ハイドン研究における近年の変化について」(2017)やA. v. ホーボーケンのカタログの参考文献を参照しつつ、その他Internet Archiveで検索しながら調べてみました。なお、Divertimentoに関する記載がなかったものや原文が読めなかったものも調査記録として掲載してあります。
(1) J. N. フォルケル: Musikalischer Almanach für Deutschland(ドイツの音楽年鑑)(1782, 1783, 1784, 1789)
ドイツの音楽学者で音楽学の始祖とされるヨハン・ニコラウス・フォルケル(Johann Nikolaus Forkel, 1749-1818)が1782, 1783, 1784, 1789年にドイツの音楽年鑑(Musikalischer Almanach für Deutschland)として編集しライプツィヒで発行した雑誌がありました。1785-1788は存在しないのか公開されていないのかは今のところわかりません。
この雑誌には楽器の発明や改良に関する報告、曲の紹介、この時期に亡くなった作曲家等の追悼文、各地からの報告だけでなく、この時期の優れた歌手一覧、奏者一覧、そして作曲家一が掲載されています。作曲家一覧は経緯だけでなく曲も掲載されているため、もしブライトコプフ(ライプツィヒ)が1782-1784年に6つのDivertimentoを出版していたならハイドンの項目に掲載されているかもしれません。ハイドンに掲載されていなかったとしても(例えばこの頃より前にハイドンではない誰か6つのDivertimentoを作曲し後にブライトコプフがハイドン作とした等の理由)、1782-1784年頃にライプツィヒで出版されていたら何らかの情報が載っているはずです。
6つのDivertimentoが作曲されたとされる1780年頃の雑誌(しかもDivertimentoが出版されたとされるライプツィヒのもの)が存在しているとは思ってもいませんでしたので、期待をもって全力で調べました(特に作曲家一覧は全て目を通しました)。
Musikalischer Almanach für Deutschland auf das Jahr 1782
Musikalischer Almanach für Deutschland auf das Jahr 1783
Musikalischer Almanach für Deutschland auf das Jahr 1784
Musikalischer Almanach für Deutschland auf das Jahr 1789
先に結論を述べますが、この4つの雑誌のハイドンの項目には6つのDivertimentoはありませんでしたし、それ以外の作曲家の欄にも6つのDivertimentoらしきものは掲載されていませんでした。それどころか1780年に管楽合奏のパルティータを書いてたはずのA. ロセッティの項目にもパルティータの記載はありませんでした。
この作曲家及び作品リストでは、厳密に数は数えていませんが1780年代は圧倒的にピアノやチェンバロのための曲(ソナタやヴァイオリン・チェロとの三重奏等含む)が多く、それ以外は協奏曲、オペラ・オペレッテ(ジングシュピール)、アリアやカンタータ等宗教音楽や歌曲、交響曲、器楽合奏(ヴァイオリン等の二重奏、三重奏)等であり、管楽合奏は全くと言っていいほど掲載されていません。
その理由はおそらく、ライプツィヒでは1743年からライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が運営されており貴族でなくても音楽を楽しめる環境があったことと、演奏はオーケストラ(と上流階級の嗜みとしてのピアノやヴァイオリン)が中心であり1780年以降ウィーンの貴族を中心に流行したハルモニームジークはライプツィヒではそれほど流行していなかったと思われるためです。
つまりこの雑誌では1782-1784のブライトコプフのカタログに掲載されていた6つのDivertimentoについては何の言及もなかったことがわかりました。正直少し期待していたので残念でした。この雑誌の1785-1788が存在するのか、存在すればなにか書いてあるのか、一縷の望みをかけて待ちたいと思います。
なお、この作曲家一覧には作品の一部、出版年、出版地が掲載されていますが、現在名がほとんど知られていないような作曲家もたくさん掲載されており、ライプツィヒを中心に幅広にリストアップしていたものと思われます。この時代に作曲家が沢山いたように見えますが、そもそも独立した作曲家という職業が確立されていない時代であり実際には「~のカペルマイスター」や「~の宮廷音楽家」「~のオルガニスト」のような肩書で示されています。詳細な記述が多かった人物はおそらく当時の有名人だったと思われ、例えばC. P. E. バッハ、J. ハイドン、J. A. ヒラー、L. モーツァルト、W. A. モーツァルト、A. サリエリ、E. W. ヴォルフ等でした。J. S. バッハよりもC. P. E. バッハの記述が多く、F. メンデルスゾーンが再評価するまでJ. S. バッハの人気はあまりなかったことが見て取れます。
ドイツ・オーストリアだけでなくチェコやフランスの作曲家も掲載されており、距離があってもライプツィヒでも名が知られていたと思われます。演奏旅行や当時の新聞・雑誌などで名が広がっていたのでしょう。ちなみに、この頃L. v. ベートーヴェンは10代なので名前が載っていません。
(2) J. エルスラー: the Haydn-Elssler catalogue(エルスラー作品目録)(1805)
Wikipedia(日)によると、1805年にヨハン・エルスラー(Johann Florian Elssler(Elßler), 1769-1843. IMSLP, Austria-Forum(肖像あり))がハイドンの作品を纏めたカタログがあるらしく、おそらくエルスラーによるハイドンカタログ(Elβlersche Haydn-Verzeichnis)を略してHVと呼ばれているようです。
J. エルスラーはエステルハージ家に雇用された写譜士であり(Wikipedia En: Fanny Elssler(娘の記事))、ハイドンの死までハイドンに仕えました。ハイドンの死後はウィーンで写譜士として生計を立てたようです(Wien Geschichte Wiki)。そのカタログは第二次世界大戦で失われたようですが写真複製は残っているようです。
このカタログの情報がインターネット上では見当たりませんので詳しい内容がわかりませんが、ハイドンに直接仕えた人物のカタログなので後世の研究者も大いに参考にしたことでしょう。Divertimento(Feldparthien)についてどのように記載していたのか、または一切の記載がなかったのか気になるところです。
(3) G. A. グリージンガー: Biographische Notizen über Joseph Haydn(ハイドン伝)(1810)
先ほどのJ. エルスラーと同年にシュトゥットガルトで生まれたゲオルグ・アウグスト・グリージンガー(Georg August von Griesinger, 1769-1845)は音楽家ではなく貴族の家庭教師(後外交官)でしたが、ブライトコプフ&ヘルテルのヘルテルの方であるゴットフリート・ヘルテル(1795年にブライトコプフ家から経営を引き継ぐ)と仲が良く、ヘルテルは1799年にG. A. グリージンガーがウィーンに移った際にハイドンとの出版契約交渉を手伝うようにお願いしていました。その交渉は成功し、ブライトコプフ&ヘルテルはハイドン作品の”完全版”を出版できるようになり、G. A. グリージンガーもハイドンの友人となりました。
G. A. グリージンガーはハイドンの伝記を書くことを思いつき、ハイドンを訪ねた後は覚えていたハイドンの言葉を書き留める等していました。雑誌に幾度か連載された後、改定され1810年にブライトコプフ&ヘルテルから「Biographische Notizen über Joseph Haydn(ハイドン伝)」として出版されています。なお、G. A. グリージンガーはL. v. ベートーヴェンとも出版交渉をしており、友人にもなっています。ベートーヴェンもグリージンガーのハイドン伝を読み称賛したようです。
このグリージンガーが記した伝記には1757年頃の交響曲第1番や1772年の交響曲第45番、1801年頃のオラトリオ「四季」(音楽サロン)、弦楽四重奏のこと(聖光学院管弦楽団, ピティナ・調査研究)等が記載されているようですので、ハイドンの作品に関する記述もそれなりにはあるのだと思います。
DivertimentoやFeldpartiten等の単語で原本内を探してみましたが特に見当たりませんでした(書体がフラクトゥールで読みにくく、匙を投げたという実情もあります…どなたか日本語訳や現代アルファベットになっている資料をご存じでしたらご教示ください)。
一部気になるのは、6つのDivertimentoについてはブライトコプフが1782~1784年にカタログに掲載していたはずです。しかしG. A. グリージンガーとG. ヘルテルがハイドンと出版契約交渉したのは1799年です。交渉する前なのにどうやって出版していたのかというのが気になります。
その他、画家のアルベルト・クリストフ・ディース(Albert Christoph Dies, 1755-1822)がハイドンと交流した記録集の「Biographische Nachrichten von Joseph Haydn(ハイドン=伝記的報告)」(日本語版が武川寛海訳,音楽之友社(絶版)であるようです(Zauberfloete通信))や、ジュゼッペ・カルパーニ(Giuseppe Carpani, 1751-1825)がハイドンと交流した書簡を伝記にした「Le Haydine(ハイドン)」という書籍がありますが、書かれている可能性が低そうなので今回は調べていません。(参考:飯森豊水氏「J.ハイドン研究における近年の変化について」開智国際大学紀要 第16号(2017) )
(4) E. L. ゲルバー: Neues historisch-biographisches Lexikon der Tonkünstler Bd.2(1812)
ドイツの作曲家エルンスト・ルートヴィヒ・ ゲルバー(Ernst Ludwig Gerber, 1746-1819)はオルガニストでもありましたが、音楽の歴史研究にも尽力しました。彼が1790年と1792年に刊行した2巻のHistorisch-biographisches Lexikon derTonkünstler(ライプツィヒ、ブライトコプフ出版)は1810年以降に改訂されてNeues historisch-biographisches Lexikon der Tonkünstler(音楽家のための新しい用語集, 新音楽家歴史伝記事典, 新歴史的・自伝的音楽家辞典等複数の日本語訳あり)(ライプツィヒ、アンブロシウス・クーネル出版)と名付けられて出版されました。
1812年に出版されたこの辞典の第2巻のハイドンの項目にDivertimentoと思しき記載があります。A. v. ホーボーケンの作品目録で「証拠」(記録?)として掲載されていた文献及び内容でもあります。
F. いくつかの楽器またはハルモニーのための小品。
2本のオーボエまたはフルート、2本のクラリネット、2本のホルン、2本のファゴットのためのハルモニー第1番、1803年作曲、おそらく編曲作品。
クラリネット、ホルン、ファゴット、セルパンのための6つのDivetimento(Mst.(Manuscript?=写譜?))。
A.v. ホーボーケンはこの部分を参考文献としていますが、ここでは編成がクラリネット・ホルン・ファゴット・セルパンとなっており、オーボエが抜けています。しかし、現在残るSLUB-Dresden写譜はすべてにオーボエが入っているので、この記載が6つのDivertimentoを指すのか疑問が残ります。ただ、ハイドン名でもセルパンを用いた曲は数少ないため、絶対に6つのDivertimentoではないとも言い切れません。
1790年に刊行したHistorisch-biographisches lexicon der tonkünkstlerのHaydnの項目をざっと流し読みましたが、そこにDivertimento(Divertissements)の単語は出るものの管楽器のハルモニーには触れていませんでした。しかし、1790年の辞典も1812年の辞典もどちらもライプツィヒで出版されており、さらに1790年の辞典はブライトコプフからの出版です。
もしかしたらE. L ゲルバーは1782-1784のブライトコプフのカタログを見ていたがオーボエを入れ忘れたか、ライプツィヒ周辺で作られた別の写譜(SLUB-Dresdenに残る写譜以外の写譜や編曲されたもの)を入手または閲覧していたか、あるいはブライトコプフのカタログとは別の起源の楽譜を見ていたもしれませんが、確かめる術がなくなぜこのような記載になったのか詳細は不明です。
(5) F-J. フェティス: Biographie universelle des Musiciens(万国音楽家列伝 第2版, 第4巻)(1862)
ベルギーの作曲家・音楽学者フランソワ=ジョゼフ・フェティス(François-Joseph Fétis, 1784-1871)が1862年に発表した「Biographie universelle des Musiciens(万国音楽家列伝)」第2版の第4巻、p.267のハイドンの項目に6つのDivertimentoの記載があります。こちらもE. L. ゲルバーと同様にA. v. ホーボーケンのカタログに「証拠」(記録?)として掲載された資料です。
なお、この万国音楽家列伝の初版は1834年に発表されたようですが、その内容は確認できていません。
103番、6つの管楽器のためのDivertimento、すなわち:
第1番(B-dur), 2オーボエ, 2ホルン, 3ファゴット, セルパン。
第2番(B-dur), 2オーボエ, 2クラリネット, 2ホルン, 2ファゴット。
第3番(Es-dur), 2オーボエ, 2クラリネット, 2トランペット, 2ファゴット。
第4番(F-dur), 2オーボエ, 2ホルン, 3ファゴット, セルパン。
第5番(B-dur), 2オーボエ, 2クラリネット, 2トランペット, 2ファゴット。
第6番(F-dur), 2オーボエ, 2ホルン, 3ファゴット, セルパン。
参考文献(出典)は同上。
「参考文献(出典)は同上(原文ibid=ibidem)」となっており、前の曲の参考文献を遡ってみると99番の参考文献を引き継いでいるものと思われます。そこにはParis, Sieber, Janet, Porro; Offenbach, Andréと書かれており、パリのSieber社(Jean-Georges Sieber)、パリのJanet社、パリのPorro社(Pierre Jean Porro)、オッフェンバッハのAndré社(Johann André)が出典となっています。ブライトコプフが出典ではありません。
ただし、A. v. ホーボーケンの作品目録には「ブライトコプフのカタログの登録を引き継いだ103番」と書かれています。
ブライトコプフと出典が書かれているのは97番とそれを引き継いだ98番であり、一度99番で出典が上記の4社に変わったあと100~103番までがibidとなっていますので、ホーボーケンが見間違えたのか、私が読み間違えているのかよくわかりません。一応、後で出てくるE. ルンツでもブライトコプフが初版ではない記載をしていますので、ここでもブライトコプフが出典ではない方向で記載します。
このブライトコプフが出典でないことについては、
1. 上記4社のいずれかが出版→ブライトコプフのカタログに掲載
2. ブライトコプフのカタログに掲載→上記4社のいずれかが掲載
3. 単にF-J. フェティスの出典書き間違い
のどの可能性も考えられます。1.と2.については、上記のパリ及びオッフェンバッハの4社の人物全員がブライトコプフのカタログに掲載された1780年以前から1780年代以降も生存しているため、ここでどちらか結論付けることはできません。
ただし、編成はブライトコプフのカタログとほぼ同じですが、ところどころホルンの箇所がトランペットになっているという違いがあり、ブライトコプフかパリ&オッフェンバッハの4社のどちらかがどちらかの編曲作品であるかもしれない、という点で注目すべきであるとは思います。
A. ラーブ博士は「曲の起源はフランスかもしれないが証拠は全くはない」と言ってましたが、このような僅かな手がかりになりそうな情報を元にほとんど情報がないフランスでの調査が進めば新たに判明する事実があるかもしれません。
(6) E. ハンスリック: Neue Freie Presse 1873/11/8の記事(1873)
ブラームスはC. F. ポールから「Chorale St. Antoni」を教えてもらい、それを引用した「ハイドンの主題による変奏曲」を1873年11月2日にオーケストラ版で初演しました。その数日後、ウィーンの音楽評論家エドゥアルド・ハンスリック(Eduard Hanslick, 1825-1904)が「Neue Freie Presse」というウィーンの新聞の11月8日分に「ハイドンの主題による変奏曲」の評論を掲載していました。その中で「Chorale St. Antoni」について少し言及していました。
インターネット調査で一部のウェブサイト(Wikipedia独等)が書いていた「エデュアルド・ハンスリックは、コラールはもともと巡礼の歌であると想定していた。」の根拠となる文献です。
変奏曲の主題(変ロ長調2/4のアンダンテ)は、おそらく元々は巡礼の歌で、馴染みやすく信心深い表現で、シンプルでありながら5小節のリズムが非常に独特である。ブラームスはこの曲を管楽器と低音だけのシンプルで美しいオーケストレーションをしている。
もちろんこの時点では元になったDivertimentoがハイドン作品だと思われていましたのでその点への言及はありませんが、ブラームスの曲になった「Chorale St. Antoni」をおそらく元々は巡礼の歌とし、5小節リズムが独特と表現していました。ただし、E. ハンスリックは巡礼歌とした根拠は述べていません。
なお、「ハイドンの主題による変奏曲」の2台のピアノ版は1874年2月10日に初演されましたが、1874年2月のNeue Freie Presseには特に詳細な記載はありませんでした。
(7) C. F. ポール & H. ボートシュティーバー: Joseph Haydn(ヨーゼフ・ハイドン)(1878-1882)
ブラームスに「Chorale St. Antoni」をハイドン作として伝えたカール・フェルディナント・ポール(Carl Ferdinand Pohl, 1819-1887, Wikipedia英,独) がハイドンについて記した書籍「Joseph Haydn(ヨーゼフ・ハイドン)」です。この「ヨーゼフ・ハイドン」は3巻構成ですが、第1巻と第2巻をC. F. ポールが1878~1882年、第3巻を補筆としてユーゴー・ボートシュティーバー(Hugo Botstiber, 1875-1941, Wikipedia英,独)が1927年にブライトコプフから出版しています。1巻258ページ、326ページ、3巻72ページにDivertimentoに関する記載があります(いずれもA. v. ホーボーケンのカタログに根拠として掲載されています)。
C. F. ポールは19世紀後半のハイドン研究の第一人者で、1866年にウィーン楽友協会のアーキビストになり、1870年にブラームスにDivertimentoの楽譜を見せています。この書籍はその後に書かれたものになります。
H. ボートシュティーバーは1905年にウィーン楽友協会のディレクターになった人物で、いくつかの音楽に関する本を出版しています。
ここではC. F. ポールの内容を掲載し、H. ボートシュティーバーの内容はまた別に掲載します。
ハイドン名の様々な楽器のためのDivertimentoは20ほどあるが、ハイドンのものであるか確実ではない。ブライトコプフのカタログには1767年と1768年に8つ掲載されている。(直筆のサインがある唯一のDivertimentoは1760年に作曲されたものであり、これには含まない)。4つの弦楽器のためのDivertimentoは1765年に弦楽四重奏として出版されたが、ハイドンの四重奏曲集には掲載されず、ハイドン自身が述べたように作曲後すぐに出版されることはなかった。いつくかの五重奏のDivertimento(2ヴァイオリン、2ヴィオラ、バス)については、編曲ではなくハイドンが実際に書いたという説には否定的であり、グリージンガーも五重奏についてはそのように述べている。
証拠が欠ける12曲のなかにはいわゆるフィールドパルティータも含まれており、例えば管楽練習用に書かれた2つのクラリネット・ホルン・ファゴット用の曲がある。
(中略)
加えて、ハイドンのものとして発行された20のディベルティメントはほとんどはノットゥルニ、セレナーテン、コンセルタンテなどのディベルティメントではないタイトルになっている。例えば、1768年のブライトコプフの手稿にある「9のカッサシオン」のうち、2つだけがハイドンのカタログに掲載されている。
ここでは、ブライトコプフのカタログにはディベルティメントが掲載されているが、その中にはハイドン作ではないものがあることが記されています。ただし6つのDivertimentoがそうであるとは明言していません。また、ハイドンのディベルティメントはディベルティメントではない名で出されることも記されています。続いて326ページには次の記載があります。
彼のディヴェルティメンティとして記されるフィールド・パルティータは、おそらくプリンス・エステルハージの軍隊の音楽のためだけに書かれたものと思われるが、すべて失われてしまった(アイゼンシュタットにあった1761年と記載のある自筆譜のディヴェルティメンティメントは1つだけで、不完全なものである)。しかし、それより後に、おそらくもっと重要な曲が残っている。その中には未だ議論中のヨハネス・ブラームスが自身のオーケストラの変奏曲に用いたテーマを引用した2本のクラリネット、2本のオーボエ、2本のホルン、3本のファゴット、セルパンのための「6つのディベルティメント」が含まれている。セレナードやターフェルムジークのための6声の和声音楽は、しばしば2本のオーボエで補強され、6声と8声があった。
一方、こちらではブラームスが変奏曲に用いた6つのDivertimetoはおそらくエステルハージ家の軍楽隊のために書かれたものの1つとしています。同時に、未だ議論中という記載もあるため、先のページもあわせるとハイドンの作品か否かについては議論中だったのかもしれません。
(8) F. ニークス: Zeitschrift der Internationalen Musikgesellschaft(国際音楽協会ジャーナル)(1904)
ドイツの音楽学者フレデリック・ニークス(Frederick Niecks, 1845 –1924)が、国際音楽協会(Internationale Musik Gesellschaft, 1899-1914, 現在の国際音楽学会(International Musicological Society)の前身)が1899年から1914年まで発行していたジャーナルに寄稿していた文書に僅かながら6つのDivertimentoの記載がありました。1903-1904年版に掲載された文書をご紹介します。なお、F. ニークスはショパンやシューマンの伝記作家として有名です。
管楽室内楽作品
(中略)
3つの偉大なクラシック(ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェン)はもちろん我々の注意を引き付ける。何を見つけたかって?ハイドンの曲の中にはフィールド・パルティータ(屋外のパルティータ)というものがあり、2本のクラリネット、ホルン、ファゴットのためのものは失われている。しかし6~8本の管楽器のための作品はまだ存在しており、10本の楽器(2本のクラリネット、2本のオーボエ、2本のホルン、3本のファゴット、セルパン)のための6つのDivertimentoは写譜だけだが残っている。
ここに書かれている内容は6つのDivertimentoの第1番ですが10重奏となっていますが、おそらく(前述の補足でも書きましたが)後述するA. v. ホーボーケンの「C. F. ポールがクラリネットを追加したバージョン」のことを指していると思われます。F. ニークスはドイツ生まれの音楽家でしたが生涯の大半をスコットランドで暮らしたようで、おそらくは何らかの文献や書籍を引用しただけのように思われます。
C. F. ポールは「ハイドン作だと思うけど議論中」のような書き方をしていましたが、F. ニークスはこの時点で既にハイドンの作品だとして紹介しています。
なお、原文はこれだけでなくもっと続いており、管楽アンサンブルの作曲家についてたくさん紹介されています(むしろそれがこの文献の本題)ので、管楽アンサンブル好きな方は是非原文の続きもご一読ください。
(9) H. ハセ: Joseph Haydn und Breitkopf & Härtel(ヨーゼフ・ハイドンとブライコプフ&ヘルテル)(1909)
ハイドンのディベルティメントや6つのDivertimentoに関する直接の言及はありませんが、ハイドンとブライトコプフの関係については1909年に音楽学者?医師?(詳細不明, Dr.の称号あり)のヘルマン・フォン・ハセ(Hermann von Hase, 1880-1945)が書いた書籍「Joseph Haydn und Breitkopf & Härtel(ヨーゼフ・ハイドンとブライコプフ&ヘルテル)」に記載されています。H. v. ハセについては詳細は分かりませんが、おそらくドイツの出版者・書店のO. v. ハセ(Oskar von Hase)の子供かと思われます(そのWikipediaの作品欄に「Breitkopf und Härtel in Leipzig. 1911」があるため)。
ハイドンの名前が最初にカタログに登場したのは1763年で、主題目録には3つのコピーの曲が載っており、それは「Divertimento di Guis. Hayden, per il Cembalo solo」、「II Concerti per il Cembalo di Hayden in Vienna, a Cl. ob. c. 2 Viol. V. B.」、「付録のリストに書かれた曲(6 Trios á 2 V e B, VIII Quadruos á 2 V. V. e B. und 6 Sinfonien á 4 & 8 Voc.)」である。それ以来、リストの数はどんどん増えていき、ハイドンは後になって「どうしてこんなにたくさんの作品を集めることができたのだろう」と疑問に思ったようだ。
ハイドンが作曲したものを自分の出版社に移すことは、当分の間は行われなかった。最初にブライトコプフによって印刷されたハイドン作品は、ヨハン・アダム・ヒラーのピアノ小曲集と歌曲集(1774/76)に収録されている; 1782年末に「アダム・ヒラーが編集したヨーゼフ・ハイドンの受難曲スターバト・マーテルのドイツ語歌詞付きピアノ版」が制作され、ライプツィヒの出版社シュウィッカートのためにブライトコプフ印刷機で1000部印刷された。ヒラーは、1779年2月のコンサートでペルゴレージとハイドンのスターバト・マーテルを演奏したが、その際には、すでに2つのドイツ語版(クロプシュトックとハイドンのドイツ語版)を一緒に印刷してブライトコプフの正本にしていた。 1781年のブライトコプフのカタログには、このスターバト・マーテルがすでに記載されており、スコアとパートで入手することができた。 ブライトコプフが「ジュゼッペ・ハイドン, チェンバロ独奏のための6つのMinuetti ridotti」を出版したのは1787年8月のことだった。
(※このMinuettiは1787年にアルタリア社から出版されたオーケストラのHob. IX:9のチェンバロ版であるHob. IX:9aのことを指し500部印刷されたようだが、A. v. ホーボーケンは「この版は知らない」と言っている。)
A. グリージンガーの項目で「1799年にハイドンと交渉する前はどうしていたのか?」と疑問を提示しましたが、このように、1763年に名前があってもおそらく他社出版からの写しだったり、誰かの作品集の一部に掲載されていたものだったり、編曲作品として出版されていたりして、ハイドンの曲がブライトコプフから正式に出版されたのはやはりG. ヘルテルがA. グリージンガーにハイドンとの交渉をお願いした1799年以降の可能性が高そうです。
事実、IMSLPのBreitkopf und Härtelのページのプレート番号リストで確認できるブライトコプフが出版したハイドン作品を見られますが、出版年が確認できるのは確かにほとんど1799年以降です。
それ以前にもなんらかのルートで出版交渉していた可能性は0ではありませんが、J. S. バッハは早くて1733年頃から、C. F. E. バッハも1760年代中盤から記録されており、1770年代からはJ. C. コンラート(Johann Christoph Conrad)やJ. A. ヒラー(Johann Adam Hiller)、E. W. ヴォルフ(Ernst Wilhelm Wolf)などの名前が度々みられるようになりますので、もしハイドン作品を正式に出版しているならちゃんと記録していたようにも思います。このことからも1780年頃はブライトコプフとハイドンの付き合いはほぼなかったと思われます。もし6つのDivertimentoをハイドン作品として正式に出版しているならば、ちゃんと記録が残っているはずです。
つまり、このことからも6つのDivertimentoは正式なハイドン作品ではない可能性が高いことが分かります。ブライトコプフは他人の曲をハイドン作と偽ってカタログ掲載したのか、他社がハイドン作として出版していたのを掲載したのか…。
(10) E. ルンツ: Haydn-Zentenarfeier : verbunden mit dem III. Musikwissenschaftlichen Kongress der Internationalen Musikgesellschaft : Programmbuch zu den Festaufführungen(1909国際音楽学会議)(1909)
1909年に開催された「ハイドン100周年記念:第3回国際音楽学協会音楽学会議」の「祝賀公演のプログラムブック」に、オーストリアの音楽学者エルヴィン・ルンツ(Erwin Luntz, 1877-1949)がDivertimentoについて記載していました。C. F. ポールは「議論中」としましたが、F. ニークスに続きE. ルンツもハイドンの作品として考えており、それがハイドン100周年の音楽学会で紹介されましたので、これ以降も1939年まで「ハイドンの作品」として伝わっていくことになります。
2つのオーボエ、2つのホルン、3つのファゴットとセルパンのための6つのディヴェルティメントは、18世紀にヨハン・アンドレ(オッフェンバッハ・アム・マイン)によって初出版された。ブライトコプフのカタログには1782年に記載されている。6曲ともBb調の管楽器に合わせている。「Chorale St. Antoni」があるディベルティメントは第1番である。この指定がどこから来ているのかは最早わからない。多くのウィーンの偉大な作曲家だけでなくハイドンにも興味を持っていたブラームスは、C. F. ポールのスコアに書かれたこの素敵な曲を見つけ、有名なオーケストラの変奏曲にテーマを用いた。これらのディベルティメントはハイドンが60年代に作曲した「屋外パルティータ」と同じカテゴリーに属する。エステルハージ家の軍楽隊の音楽だが、これらは全て失われてしまった。ハイドン自身もこれらの作品をあまり重要視していなかったようで、少なくとも作品カタログの中では言及していない。これらの美しくて芸術的な小品は忘却の彼方から取り戻される価値がある。4つの楽章はすべてB-durで、特に歌のような主題が特徴的だ。小ソナタ形式の第一楽章が次のように始まる。(譜例)
この後には有名な「Chorale St. Antoni」が続き、独特な5小節構造になっている。(譜例)
そしてメヌエット、そして最後にロンド・アレグレット(譜例)
これはコラールを彷彿とさせる。コーダも同じ最終小節から展開される。
エルヴィン・ルンツ
ここで重要なのは、ハイドンが作曲し18世紀にオッフェンバッハのヨハン・アンドレ(Johann André)から最初に出版された(その後1782年にブライトコプフカタログに掲載されている)としているところです。このオッフェンバッハのJ. アンドレからの出版という記述は先述のF-J. フェティスの万国音楽家列伝とE. ルンツのこの文献でしか見られず、これ以降の研究者は言及していません。
なぜE. ルンツがJ. アンドレからの出版だとしたのか、それが事実か否か、そしてハイドン100周年の音楽学会で書かれたにもかかわらず以降は誰も言及しなかったのか、調べていく必要があります。
J. アンドレ社を調べたところ、1774年以降のヨハン・アンドレ社設立後のアーカイブには特に掲載はなく、この根拠となる資料が何かも探しているところです。1797年にヨハン・アンドレはカタログを出しているらしいのですがネット上で確認できないため、掲載されているかは不明です。
「18世紀にヨハン・アンドレから初版された」という情報と、IMSLPにあるような「1782年にブライトコプフから初版された」という情報に矛盾が生じますので、二種類の情報の検証が重要になるでしょう。
また、「Chorale St. Antoni」の5小節単位の独特さや第四楽章との類似点等曲の内容に触れているのも注目です。5小節単位の独特さという部分はE. ハンスリックからの引用でしょう。なお、この1909年の音楽学会では演奏が行われたようで、資料のp50には演奏者と編成が掲載されています(セルパンではなくコントラファゴットになっています)。K. ガイリンガーがコントラファゴット入りの編成で編集する以前からセルパンをコントラファゴットで代用することは行われていたようですね。
補足:セルパンで記載したようにセルパンの後継楽器ロシアンバスーンをコントラファゴットと呼ぶ習慣だった可能性もありますが、さすがに1909年にはセルパンもロシアンバスーンもオフィクレイドも廃れてチューバに置き換わっていましたので、現代のコントラファゴットそのものを指していると思われます。
(11) A. シュネリッヒ: Joseph Haydn und seine Sendung(ヨーゼフ・ハイドンとその使命)(1922)
イタリア生まれでウィーンで活動した音楽学者アルフレッド・シュネリッヒ(Alfred Schnerich, 1859-1944)が書いた「Joseph Haydn und seine Sendung(ヨーゼフ・ハイドンとその使命)」のp.64とp.195に6つのDivertimentoに関する記述があります。
この文献もA. v. ホーボーケンのカタログに参考文献として記載されています。
同じ年、バンドは再編成されて再編成された:教会音楽やターフェルムジークとは対照的に、オーケストラ音楽や室内楽が前面に出てきた。ハイドンは全力で活動していた。また、彼は懲戒処分の分野でも多くの仕事をしており、温和で慈悲深い調停者としてどこにでも姿を現していた。ハイドンはどこでも手伝ってくれたし、時には写譜の仕事もしてくれた。提示された法案は非常に控えめなものだった。
この第1期からは管楽器のための6つの「フィールド・パルティータ」があるが、そのうちの1つは、第2楽章の「聖アントニの聖歌」をブラームスが変奏曲の主題として使用していたことで今でも忘れずに知られていてる。この聖歌はおそらく巡礼の歌が元になっているのだろう。奇数と偶数のリズムが交互にあるのが不思議だ。1760年には交響曲「ル・ミディ」の第1楽章も作曲した。
ヨーゼフ・ハイドンとその使命, p.195(意訳)
6つのフィールド・パルティータ。入手:1 B-dur 4/4拍子
2クラリネット, 2オーボエ, 2ホルン, 3ファゴット, 1セルパン(聖アントニの聖歌を含む)。1761年
いままでと違うのは、p.195の方に明確に1761年作曲(または出版)としているところです。前項のL. ルンツとあわせると1761年にJ. アンドレから出版されたことになりますが、果たしてどうなのでしょうか。
もしかしたら1761年からの期間に作曲した、程度の意味かもしれません。というのも、後述する1957年のA. v. ホーボーケンの書籍にはA. シュネリッヒのこの文献と第2巻からの引用として「この最初の期間(すなわち、1761年にポールアントン公爵からニコラウス公爵へ当主の変更)に、6つのFeldpartitenが登場する。」と書かれているからです。
Chorale St. Antoniについては「コラール」ではなく「聖歌(Hymnus)」と言っているのが特徴的です。また、ここでも巡礼の歌の可能性やリズムの不思議さを言っており、これはE. ハンスリックの話を引き継いでいます。
出典として記載されたクラリネットのある編成は、おそらくウィーン楽友協会に残っていると思われるC. F. ポールのクラリネット追加版と思われます(詳細はA. v. ホーボーケンの項目をご覧ください)。A. シュネリッヒはウィーンで活動していましたので、おそらく楽友協会に残る資料を閲覧等をしたのでしょう。
(12) C. F. ポール & H. ボートシュティーバー: Joseph Haydn(ヨーゼフ・ハイドン, 補筆)(1927)
C. F. ポールの「ヨーゼフ・ハイドン」をH. ボートシュティーバーが補筆した「ヨーゼフ・ハイドン 第3巻」のp.72とp.308には以下の記述があります。
この頃、ハイドンはアイゼンシュタットだけでなくウィーンでも忙しく、いくつかの器楽曲を作曲したり、編集したりしていました。例えば翌年(1794年)ロンドンに持ち帰りザーロモンと演奏した交響曲第99番変ホ長調、6つのアポーニー四重奏曲(第1アポーニー四重奏曲,第2アポニー四重奏曲)、それから管楽器のための6つのディヴェルティメント(それは優雅で遊び心のある曲で、その中でも変ロ長調の1つは後にヨハネス・ブラームスが管弦楽の変奏曲に用いたChorale St. Antoniを持つ)。また、1793年にハイドンが書いたヘ短調のピアノのためのアンダンテと変奏曲(ピッコロ・ディベルティメント)である。
(1)前述したように、旧エステルハージ教会では、管楽器だけからなる「屋外ハルモニー」だけが残されており、このディヴェルティメントはそのために意図されたものだった。
(2)ウィーンの国立図書館に自筆譜があり、後にアルタリアから、マダム・バロンヌ・ブラウン献呈op.83として出版された。
H. ボートシュティーバーはここでC. F. ポール及び今までの研究者とは異なり「6つのDivetimento」が1793年頃に作曲または編集されたとしているようです。
ハイドンはそのような小さな管楽器のための行進曲をいくつか書いたほか、1791年から1795年までの間エステルハージ楽団はなかったが、唯一残っていたプリンス・エステルハージの「屋外楽団」の演奏曲にするために1780年代にすでに書かれていた「6つのディヴェルティメント」など、それ以前の作曲をいくつか持ち出した。これらのディヴェルティメントは8声のために書かれたもので、通常は2つのオーボエ、2つのホルン、3つのファゴットとセルパン(蛇のような形をしたコントラバスーンに似た音で、金管楽器のマウスピースでありながら木管楽器の特徴を持っていた)のために書かれた。ファゴットが2本しかない曲もあるが、そのときはクラリネットが現れる。曲自体は組曲のようなもので、通常4~5楽章構成である。たいてい第一楽章は行進曲で、マーチの名がついている。全ての屋外組曲にはメヌエットがある。フランスの組曲のように、緩徐楽章にはLa vierge Marie, Dolcema L’amour, Chorale St. Antoni(前述の通り、ヨハネス・ブラームスが管弦楽変奏曲の主題として使用している)といったタイトルの見出しがついていることがある。
掲載した両ページを合わせるとH. ボートシュティーバーは「6つのDivertimento」について1780年代には既にエステルハージ家のために書かれおり1793年に編集されたといっているようです。
補筆というだけあって今までの書籍・文書のなかで曲の中身までしっかり説明されています。しかし、E. ハンスリックの話や同じ時代のはずのE. ルンツやA. シュネリッヒの説はあまり受け継いでいません(単にC. F. ポールによる書物の補筆だからでしょうか?)。どちらかというとなるべく憶測を排して6つのDivertimentoに関する事実を淡々と述べたという感じでしょうか。
楽曲説明ではフランスの組曲のようだとしていました。編成に関する説明内容は現在SLUB-Dresdenに残るパート譜の内容と一致しております。C. F. ポールもH. ボートシュティーバーも現在SLUB-Dresdenに残るパート譜を見ていた可能性が高いでしょう。補筆が出たのは1927年ですが、この時点でもやはりハイドン作だと思われていたようです。
(13) K. ガイリンガー: Haydn, a creative life in music(ハイドン, 音楽の創造的人生)(1932→1946)
IMSLPのスコアを作成したカール・ガイリンガー(Karl Geiringer(英・独), 1899-1989)が執筆した書籍「Joseph Haydn」(1932)とその英語翻訳「Haydn, a creative life in music」(1946)でハイドン作品だと思われていた時代の節目が来ます。ドイツ語版はインターネット上で見つけられなかったのですべて英語版です。なお、おそらくですが日本語版は「ハイドン伝―その人と生涯 」(山本哲五郎 訳)として1961年に発売されているようです。
第四期 1780-1789年
1780年代にプリンス・エステルハージの軍楽隊のために書かれたハイドンの6つの「フィールドパルティータ」は第四期の作品に含まれ、そして90年代に改訂された。6つのフィールドパルティータは8重奏で、中にはオーボエ2本、クラリネット2本、ホルン2本、ファゴット2本、そして蛇の形をした古いバス・コルネットの「セルパン」のために書かれたものもある。緩徐楽章に「ラ・ヴィエルジュ・マリー」のようなタイトルを持つものもあり、17世紀から18世紀にかけてのフランスの組曲の傾向を彷彿とさせる。これらのパルティータの中で最も重要なのは変ロ長調のものだ。ハイドンの伝記作家ポールは1870年に友人のヨハネス・ブラームスにこのパルティータのコピーを見せ、彼はすぐに第2楽章をノートに書き写した。ブラームスは、第2楽章の元になった古いオーストリアの巡礼者の歌である「聖アントニのコラール」に魅せられ、ハイドンの作曲から約100年後の1873年の夏に作曲した「ハイドンの主題による変奏曲」op. 56の主題として使用した。このパルティータ(1932年にこの本の著者が編集した)は4つの楽章で構成されており、どの楽章もメロディーに関係性がある。第1楽章、メヌエット、フィナーレは、第2楽章で提示された「聖アントニのコラール」の変奏曲と言ってもよいかもしれない。主となる踊りの変奏によって組曲中の様々な舞曲が構成された17世紀の古いドイツの変奏組曲がここで復活しており、19世紀の作曲家たちが大切にしていた循環的な形式が既に予告されている。
変ロ長調のパルティータと同様に、この組曲の他の曲も4つの楽章で構成されている。それぞれのパルティータのシンプルな構成、短い組曲の全楽章で同じ調性を使用していること、行進曲や小品を挿入していることなどそれらすべてが、ハイドンはプリンス・エステルハージ軍楽隊のメンバーを複雑な曲で落胆させたくなかったことを示しています。
K. ガイリンガーの書籍でもまだハイドンの作品だとしていました。また、E. ハンスリックやH. ボートシュティーバーの記述を引き継いでいる部分もあるようです。
- 6つのFeldpartitenは1780年代に書かれ、90年代に改訂された
- Chorale St. Antoniは「古いオーストリアの巡礼歌」
- 緩徐楽章のいくつかはタイトルがついており、17世紀や18世紀のフランスの組曲と似た傾向であるが、舞曲で構成された17世紀の古いドイツの変奏組曲である。Bb-durのパルティータは、第二楽章に用いられた「Chorale St. Antonii」の変奏曲といえる
作曲・出版年について、A. シュネリッヒが1761年としE. ルンツが18世紀としたのに対し、1780年代に書かれ1790年代に改訂したという記載はH. ボートシュティーバーを引き継いでいるものと思われます。
Chorale St. Antoniについては、E. ハンスリックの「巡礼歌かもしれない」を引き継ぎつつ、ここで初めて「古いオーストリアの巡礼歌」という記載が表れました。ドイツ語原文が読めないのでわかりませんが、google booksで検索するとbrugenlandがヒットしますので、おそらく原文では「ブルゲンラントの巡礼歌」と言っていると思われます。
楽曲形式についてC. F. ポールおよびH. ボートシュティーバーは「フランス組曲風」としていましたが、K. ガイリンガーは「舞曲による17世紀のドイツ変奏組曲」としており、Divertimentoについても「Chorale St. Antonii」の変奏曲としています。1movはそうでもありませんが確かに2~4movは多少メロディーラインが似ているように思います。この類似性についてはE. ルンツも1909年に指摘していました。
しかし、K. ガイリンガー以降楽曲形式については誰も言及していません。
K. ガイリンガーはハイドン作品であることを疑っていなかったようですので、「古いオーストリア(ブルゲンラント)の」や「舞曲による17世紀のドイツ変奏組曲」がどこまで信憑性を保つのかは議論の余地があります。
なお、英語版は1946年出版でJ. P. ラールセン論文より後になっているにも関わらず内容は「ハイドンの作品だ」としているのでややこしいですが、K. ガイリンガーは戦争の影響でラールセン論文がでる以前にドイツから亡命し晩年までアメリカにいたのでやむを得ないのかもしれません。
●1939年(J. P. ラールセンの論文)以降
近年に近づくほどオープンアクセスとなっておらず、読むのにお金がかかってしまう(場合によっては万円台)ので読めていませんが、「このような書籍に書いてあるかもしれない」という記録も兼ねて幅広に掲載しています。
(14) J. P. ラールセン: Die Haydn-Überlieferung(ハイドン伝承)(1939)
ハイドン研究所のA. ラーブ博士からA. v. ホーボーケンの師匠であるJ. P. ラールセン(Jens Peter Larsen, 1902-1988)が1939年に発表した論文「Die Haydn-Überlieferung」(ハイドン伝承)ですでに「Feldpartiten」の作曲者は疑わしいものだったと教えて頂きました。
こちらの論文はネット上のどこを探しても閲覧できませんでした。世界や日本の音大には所蔵されているようですが、アマチュアが気軽にアクセスできるものではありませんでした。一番読まなければならない論文だと思いますがが、やむを得ません…。
論文の内容は大まかに飯森豊水氏「J.ハイドン研究における近年の変化について」に掲載されています。
飯森豊水氏「J.ハイドン研究における近年の変化について」(引用)
従来、「ハイドンの作品」として伝承された作品の真贋問題を検討する際、作品の音楽的特徴から研究者が主観的に判断することがしばしば行われていた。しかしラールセンはこうした様式に基づく判断を排除して、科学的・実証的な方法に従う必要性を説き、そのための基礎研究を行った。上記の著作では、作曲者の自筆楽譜に関してはその所在や真正性の判断方法が、筆写楽譜に関してはその種類、真正性の判断基準、さらに信頼性の高い写譜家、およびハイドンの弟子による筆写楽譜等の所在を詳述している。加えて、作品の成立年代の判断基準、楽譜用紙やすかし、信頼できる作品目録についての説明をしている。
つまり、音楽形式等による判断ではなく、楽譜用紙の科学的判定や写譜家や写譜の所在地等の総合判定により、「6つのDivertimento」はハイドン作ではないとしたと推測されます。できればラールセン論文を読んでみたかったところです。
この論文以降研究者の間では「Divertimentoはハイドン作ではない」が通説となります。
H. ペリーが木管五重奏に編曲したのは1942年とこの論文の3年後ですが、ペリーがハイドン研究者じゃない限り知ることはできなかったかもしれません。
(15) H. C. R. ランドン: Saturday Review of Literature “True and False in Haydn.”(ハイドンの真実と嘘)(1951)
Saturday Review of Literature(SRL, ホームページ)…サタデイ・レビューとはアメリカのニューヨークポスト紙が1920~24年に土曜日に補足として出していたレビュー紙で、1924年以降独立した雑誌となりました。度々破産したようですが、現在はアーカイブも作られています。
この雑誌の1951年8月25日分に、K. ガイリンガーの門徒であるアメリカの音楽学者 ハワード・シャンドラー・ロビンス・ランドン(Howard Chandler Robbins Landon, 1926-2009)が「True and False in Haydn.」(ハイドンの真実と嘘)と題して文書を寄稿しています。H. C. ロビンス・ランドンは K. ガイリンガーが亡命後アメリカに来た際に学び、一時期ハイドン研究に関する第一人者でした(現在はヨーゼフ・ハイドン研究所が正確性に勝るようです)。この中に、Divertimentoに関する記述がでてきます。
もう一つの興味深い事例は、6つの “Zittauer” Divertimenti (これらの作品の唯一のMSS(Manuscripts)がライプツィヒ近郊のザクセンの町Zittauにあるギムナジウム図書館にあるため、このタイトルが付けられた)に関するものだ。この作品は、セルパンを含む大規模な管楽合奏のために書かれた。ディヴェルティメントの一つは演奏会によく行く人なら 既に誰でも知っているだろう。第2楽章の「聖アントニのコラール」は、ブラームスが「ハイドンの主題による変奏曲」に使用したものだ。現在では、このシリーズはすべて偽物であり、ハイドンが書いた音は1つもないことが明らかになっている。ハイドンの弟子の一人、おそらくプレイエルが本当の作者だったのではないか。
J. P. ラールセンの論文を読んでいたのでしょうか、ランドンも6つのDivertimentoはハイドンのものではないことは明らかとしています。一方で、真の作曲者はプレイエルではないかという推測をここで述べています。A. ラーブ博士からGrove Vによって「プレイエルの可能性」が広まったと教えていただきましたが、そのGrove VはH. C. R. ランドンの寄稿に基づくものだったと思われます。
(16) Dictionary of Music and Musicians (Grove V)(グローヴ第5版)(1954)
Dictionary of Music and Musicians(ニューグローヴ世界音楽大事典(The New Grove Dictionary of Music and Musicians)の昔のもの)という西洋音楽の辞典の1954年版(グローヴ第5版=Grove V)に、「Divertimentoはプレイエルの作品かもしれない」という記述が載っているとA. ラーブ博士に教えていただきました。この記載は前述のとおりランドン寄稿を基にしたのだと思われます。このGrove V(1954)の記載によって「真の作曲家はプレイエルかもしれない」という予想が世界中に広まり、現在でも様々なウェブサイトでこの記述がみられます。しかしA. ラーブ博士からは「プレイエルの可能性という根拠は全くない」と教えていただいています。
Internet Archiveにて初版(A Dictionary of Music and Musicians, 1878~1890)や第2版(Grove II, 1904~1910)は閲覧できるようですが(Wikipediaの脚注に詳細があります)、第5版はインターネット上で閲覧できませんでした。
初版や第2版をざっくり検索してみたところでは6つのDivertimentoについての記載はありませんでしたので、やはり1954年以降のグローヴ第5版に掲載されていそうです。なお、次項のA. v. ホーボーケンの書籍には「Bei Grove, 5.ed. Bd.IV S.177 werden sie Pleyel zugeschrieben.」の記載がありますので、グローヴ第5版第4巻177ページに掲載されているものと思われます。
日本語版は講談社から1993-1995年にかけて発売されているようですが、25年前の情報なのでどう書かれているのか購入してみないとわかりません。
また、英語版は現在オックスフォード大学が「オックスフォード・ミュージック・オンライン(Oxford Music Online)」としてオンライン上でも閲覧できるよう運用しています。こちらも購読費用がかかりますので中を調査することができませんが、もしかしたら最新の研究結果を踏まえて改定されているかもしれませんね。
(17) A. v. ホーボーケン: J. Haydn, Thematisch-bibliographisches Werkverzeichnis(ホーボーケン作品目録)(1957)
これまでの項目でたびたび述べて来ましたが、ここでやっとオランダの音楽学者アンソニー・ヴァン・ ホーボーケン(Anthony van Hoboken, 1887-1983)の書籍を紹介します。A. v. ホーボーケンは32歳ころから作曲家オットー・フリースランダー(Otto Vrieslander)の元でバッハからブラームスまでの初版と原稿の収集を行い、ハイドンについても膨大な資料を収集しました。1957年に刊行したハイドン作品の目録「J. Haydn, Thematisch-bibliographisches Werkverzeichnis」(ヨーゼフ・ハイドン主題書誌学的作品目録, 通称ホーボーケン作品目録, ホーボーケンのカタログ, Hoboken catalogue)では、6つのDivertimento(Feldpartien)について解説がされています。詳細は328~331ページ(Internet Archiveで見るなら352~354)でご覧ください(ドイツ語)。
6つの屋外用組曲 – 作曲者不明
No.41-43 2オーボエ、2クラリネット、2ファゴット、2ホルンまたはトランペット
No.44-46 2オーボエ、2ファゴット・オブリガート、ファゴット・リピエーノ、セルパン、2ホルン
(譜面の記載。詳細は原本参照)
証拠:ブライトコプフのカタログ(1782-84)「6つのディベルティメント」No.1~No.6、ブライトコプフ&ヘルテルの競売カタログ(1836)の1207-1208ページか?注釈をみること、E. L. ゲルベル「Neues historisch-biographisches Lexikon der Tonkünstler」第2巻、F. J. フェティス「万国音楽家列伝」第5巻のブライトコプフのカタログ(1782-84)の登録を引き継いだ103番、A. フックスのテーマ別索引14aのF6とF7、同テーマ別索引15のB1~B3及びB(正しくはEs)4。
写譜: ウィーン楽友協会「Divertimenta ac Galantheriae」にある「管楽器のための6つのディヴェルティメント」について、スコアはC. F. ポールの所有した「Zittauパート譜No.113-18」からなる。
II:46は「Divertimento I à 2 Oboi, 2 Klarinetti, 2 Corni, 2 Fagotti obl. Fagotto e Serpent」と題され、クラリネットはC. F. ポールが追加した。この曲は「2 Oboi, 2 Corni, 2 Fagotti obl., Fagotto e Kontrafagott」のためのコピー(スコア及びパート譜)がまだ利用できる。Divertimento II-VIについてはZiEXの楽譜と同じ編成である。(中略)ウィーン楽友協会にあるC. F. ポールの手書きのメモはブライトコプフ・コレクションの「No.6~No.11」のコピーとブライトコプフのカタログ(1782-84)は同じ順番と編成になっているとしていた。
版:II:41の2Ob, 2Cl, 2Fg, 2Hrのための新版はK. ガイリンガーにより1931年に「Divertimento III」として出された(ウィーン、ユニバーサルエディション社)。
II:46も2Ob, 3Fg, Cfg, 2Hrのための新版が1932年にK. ガイリンガーにより「Divertimento(Feldpartita)」として出された(ライプツィヒ、シューベルス社)。Fl, Ob, Cl, Fg, Hrのための新版はハロルド・ペリーによって1942年に出された(ロンドン、ブージー&ホークス社)。
注釈:六重奏曲II:40と同様に「6つの屋外パルティータ」の真正性の仮定については、六重奏曲II:40と共にZiEXに唯一現存するのコピー譜(ブライトコプフのカタログ1782-1784とその後のブライトコプフ・コレクションに掲載されたもの)に基づいている(VIId:4も参照)。C. F. ポールの第1巻326pには「屋外パルティータの名でそこに所属する2Cl, 2Ob, 2Hr, 3FgとSerpanのための6つのDivertimentoはまだ議論中であるが…」とかかれているが、第2巻ではこの話が戻ってこない。ボートシュティーバーだけが第3巻にて再度パウル・アントン2世の屋外ハルモニーのために1793年に一部を作曲し一部を編集したものだと言及している。私の考えでは、そのような編集を行うにはエステルハージ・アーカイブ(ブダペスト)のコピーが必要であるが、そこには存在しなかったのではないかと思っている。K. ガイリンガーの「Joseph Haydn」(1932)66,67ページにはブライトコプフのカタログに掲載されているのと同時期の1780年代に設定されている。グローブ辞典第5版第4巻p.177では、プレイエルに帰属すると記載されている。
II:46の「Chorale St. Antoni」は、ヨハネス・ブラームスが「ヨーゼフ・ハイドンの主題による変奏曲op.56」で使用したものである。このメロディの他にもII:42の「Dolceme l’amour」やII:45のアリア「La vierge Marie」を有名なメロディーとして引用したのかもしれないが、これらはまだ証明されていない。
文献:C. F. ポール第1巻p.258(「証拠がない12曲の中には、いわゆるフィールドパルティータがある…」)、p.326、第3巻p.72、p.308-309、A. シュネリッヒ「ジョセフ・ハイドンとその使命」第1巻p.64と第2巻p.55(「この最初の期間(すなわち、1761年にポールアントン公爵からニコラウス公爵へ当主の変更)に、6つのFeldpartitenが登場する。」)
略語(参考資料の略称)が多くて正確性に欠けるかもしれませんが、概ねの情報はつかめていると思います。ここで重要なのが以下のとおりです。
- 作曲者は不明としている。
- ウィーン楽友協会にあるスコアはZiEx(現在のSLUB-Dresden所蔵譜)に基づいている。
- ウィーン楽友協会のDivertimento IはC. F. ポールがクラリネットを追加したものだがII~VIはZiExと同じである。
- 1782-84のブライトコプフのカタログ以外にもブライトコプフ・コレクション(Breitkopf-Sammlung)に掲載されているらしい。
- 1780年代に作曲された可能性は否定していない(1793年の編集の可能性は否定)。
- プレイエルの可能性を紹介している。
- 6つのDivertimentoに引用されている名前付きの曲はよく知られたメロディーからの引用だったかもしれないが証拠はない。
作曲者については不明としてあり、J. P. ラールセン論文を踏襲しているように思います。
ウィーン楽友協会にはスコアがあるとしており、C. F. ポールがZiEx譜(SLUB-Dresden所蔵譜)からクラリネットを追加してウィーン楽友協会に保存したようで、IMSLPの「ポールがクラリネットを追加した」の記載はこの書籍に基づくものだということがわかりました。ほかにも、F. ニークスのやA. シュネリッヒが十重奏で記述しているのはこのC. F. ポールが追加したものを参考にしたと考えられます。ウィーン楽友協会に残っている楽譜がどのような内容なのか(実際に残っているのか、ポールの手書き写譜なのか、本当にスコアはあるのか等)は楽友協会に確認しないとわかりませんが、気になります。(ウィーン楽友協会のアーカイブにはC. F. ポールの手書きによる八重奏のスコアの情報はありましたが、十重奏については見つけられておりません。)
C. F. ポール自身もZiEx譜を持っていたと書かれており、やはり近年の研究の元になっているのはZiEx譜(SLUB-Dresden所蔵譜)しかないのも確認が取れました。ブラームスに見せたのもZiEx譜かそれから作成したスコアだったのでしょう。
また、ここでもプレイエルの可能性を否定はしていないので「プレイエルかもしれない説」はグローブ第5版とホーボーケン作品目録によって広まったと言えるでしょう。
1793年に編集した説は否定したものの、この時点でも1780年頃に作曲されたことは否定していませんので、作曲年代が1780年頃というのはほぼ共通認識なのでしょう。
(18) H. C. R. ランドン: Haydn: Chronicle and Works(ハイドン、年代記と作品)(1976-1980)
1951年に「Divertimentoはプレイエル作かもしれない」といった音楽学者 H.C.R.ランドンが1976~1980年に「Haydn: Chronicle and Works (ハイドン、年代記と作品)」という膨大な資料を掲載した書籍(全5巻)を刊行しました。
こちらもインターネットでは閲覧できませんでしたのでDivertimentoが載っているかわかりません。ただ、「プレイエル作かもしれない」といった人物による書籍ですので何らかの記載はしてあることを期待しています。
なお、この「ハイドン、年代記と作品」の校訂楽譜についてはヨーゼフ・ハイドン研究所の「ハイドン全集」と比較すると正確さに劣るようであり、影響力が次第に低下しているようです(飯森豊水氏「J. ハイドン研究における近年の変化について」)。
(19) ヨーゼフ・ハイドン研究所: Haydn Werke(ハイドン全集)(1958~現在まで)
J. P. ラールセンが初代の学問責任者となり、現在はA. ラーブ博士が学問責任者を務めるドイツ・ケルンのヨーゼフ・ハイドン研究所(Joseph Haydn-Institut)が1958年から刊行し続けているハイドンの作品集「Joseph Haydn Werke(ハイドン全集)」です。校訂楽譜としては現在最も優れているようです。
このDivertimentoに関する記述は、A. ラーブ博士により「Joseph Haydn Werke」-シリーズVIII第2巻「Bläserdivertimenti und Scherzandi」ソニア・ゲルラッハ校訂-G. ヘンレ(ミュンヘン)1991年出版の121ページに記載されていると伺いました。
110ユーロですので1万円以上かかり、さすがに購入できませんでした。しかし、おそらくDivertimentoに関しても十分にまとめられていると思いますので、いつか内容を読みたいものです。
(20)Wind ensemble sourcebook and biographical guide(1997)
Douglas Yeo氏のページに「Wind ensemble sourcebook and biographical guide」(1997)という書籍でハイドン・プレイエル以外の可能性を示した文章が紹介されていました。この「Wind ensemble sourcebook and biographical guide」はA. M. Stoneham, Jon A. Gillaspie, David Lindsey Clarkの3氏により書かれたようですが、彼らの詳細は分かりません。なお、以下には記載していませんが、プレイエルの可能性を否定した理由を「プレイエルと同時期のDivertimentoと似ても似つかない」と説明しています。H. C. R. ランドンによりプレイエルへの可能性の言及がされた以降でも「プレイエルらしくないのではないか」という意見もあったようです。
我々の推測では…本当に推測でしかないが…これらの作品のいくつかはハイドンの本物の素材から作られていると思っている(必ずしも管楽ではなく、もしかしらたオルガンの即興演奏かもしれない。ハイドンオルガンからの作品を指揮したことで知られている。)。我々はこの作曲家は1760年代のハイドンの作風を知っていた有能な音楽家で、おそらくエステルハージ家かショプロン(アイゼンシュタットのすぐ南の町)の楽団に所属した演奏家であり、ハイドンの様式を真似しようとしていたのではないかと推測している。エステルハージ家のリストには、ハイドン作の管楽作品が演奏された1760年代と20年後にこの作品が出版された際にも掲載されていた、有能な作曲家として知られた者がいる。フランツ・ノヴォトニー(オルガン奏者)、ヨーゼフ・ヴォルフガング・ディーツル(ヴァイオリン・ホルン奏者)、ヨーゼフ・プルクシュタイナー(ヴァイオリン・ヴィオラ奏者)、カール・シリンガー(コントラバス・ファゴット・フルート奏者)。
この書籍ではDivertimentoについて「ハイドンやプレイエルの作品ではないが、ハイドンに近かった演奏家がハイドンのオルガン曲他からテーマを取り、ハイドン風にした作品ではないか」という説を立てているのです。プレイエル以外の作曲家の可能性を指摘した書籍・論文はなかったため、とても意義があると思います。
しかし、「エステルハージ家付近の楽団経験者」かつ「作曲家」の可能性からこれらの音楽家の名前を挙げているため、A. ラーブ博士のメールのとおりハイドンの周囲の人物ひいてはオーストリア作曲家の可能性がないことから、この説も残念がながら否定されてしまうでしょう。もしエステルハージ家の関係者が作曲していたならばエステルハージ家の近くで楽譜が見つかるはずですが、600km離れた場所でカタログに掲載され、現在はたった1つしかパート譜が残っていないことの説明がつかないのです。
これ以外に真の作曲者に言及する意見は見つけられませんでしたので、まだ真の作曲者の追求は終わっていないのでしょう。
(21) A. ラーブ: Editionen der Werke Joseph Haydns(2015)
現在ヨーゼフ・ハイドン研究所の学問責任者であるA. ラーブ博士(Dr. Armin Raab)もDivertimentoについて記載をしていました。博士の詳細はヨーゼフ・ハイドン研究所の紹介ページをご覧ください。膨大な出版物・寄稿・講義のリストが掲載されており、ハイドン研究の第一人者なのだということがわかります。
Hob:41-46に関しては、博士が2015年にMusikeditionen im Wandel der Geschichteに寄稿した以下の文章「Editionen der Werke Joseph Haydns」のp311-336に記載があります。
ラールセンは出版物のなかで出典の出どころに注目した。写譜がハイドンの身近なところから出たものなのか、北ドイツから出たものなのか、ハイドンの目の前のウィーンで作られたものなのか、例えばアムステルダムで作られたものなのかは、楽譜の信憑性だけでなく、作曲者の信憑性にも決定的な影響を与える。実際、最も有名な「偽物」の作品のいくつかは、当初から遠くで見つかった(そしておそらく遠くで作られた)。例えば6つの弦楽四重奏曲「Op.3」(今でも人気の高い「セレナーデ」はop.3の第5番の緩徐楽章)はアントワーヌ・バイユー(1720年頃~1798年頃)の出版物によってパリで脚光を浴びることとなり、Hob:II41-46の6つのDivertimento(46番はヨハネス・ブラームスがハイドンの主題による変奏曲のテーマに用いた)はツィッタウから単一の写譜しか見つかっていない(現在はSLUB-Dresdenに所蔵されている)。ラールセンはまた、紙の試験(特に透かしの分類)や筆跡の鑑別をハイドンの調査研究に導入した。しかし、完全版を作るには、世界中に散らばっているハイドンの情報源を体系的に登録する必要があった。
メールでお聞きした「資料が見つかった場所が重要」「偽物の多くはハイドンから遠くで見つかった」「偽物のほとんどは単一の資料しか残っていない」ということが文書でも書かれていたようです。これらのこともJ. P. ラールセンの研究成果であり、科学的手法に基づいていたことが紹介されています。
日本のハイドン研究者(感謝も込めてご紹介)
1. 大宮真琴氏
年代的にはH. C. R. ランドンと同じくらいの方ですが、日本ではこの大宮真琴氏(1924-1995)がハイドンの研究者として有名です。ヨーゼフ・ハイドン研究所の理事もしていました。
氏の書籍にDivertimentoに関する記載があったか否かはわかりませんが、ヨーゼフ・ハイドン研究所に質問をする際に「ハイドン・オルナメント」に関する文書「18世紀ヨーロッパ古典派音楽における演奏の装飾」を引用させていただきましたのでここにご紹介いたします。
2. 飯森豊水氏
直接存じ上げませんが、2020年現在は開智国際大学の教授でいらっしゃるのでしょうか。2017年に飯森豊水氏が書かれた「J.ハイドン研究における近年の変化について」という論文で、ハイドンに関する研究者や研究内容について非常に分かりやすく纏められており、本記事で度々引用させていただきましたのでここにご紹介いたします。
★文献調査等のまとめ
【作曲者はハイドンではない】
1939年まではハイドンだと思われていましたが(ただし、C. F. ポール (1878-1882)7だけ「議論中であるが」としていました)、J. P. ラールセン(1939)14の論文以降はハイドンではないことが明らかになり、それは現在まで多くの研究者が支持しています。
J. N. フォルケル(1782, 1783, 1784, 1789)1に記載がなく、H. ハセ(1909)9でも言及がなく、G. A. グリージンガーがハイドンと交渉したのも1799年で、ブライトコプフ&ヘルテルのハイドンのプレート一覧にも無いこと等より、歴史的経緯もハイドン作ではない可能性を高めていると考えられます。
【真の作曲者は不明だが、プレイエルやオーストリアの作曲家ではない】
ハイドンの作品ではないことが明らかになった後、H. C. R. ランドン(1951)15、グローヴ第5版(1954)16、A. v. ホーボーケン(1957)17に「真の作曲者はI. プレイエルかもしれない」と紹介され、その後否定的な論文は知られていないため現在でも一定数信じられています。また、Wind ensemble sourcebook and biographical guide(1997)20では、「ハイドンやプレイエルではないがハイドンに近かった演奏家」の可能性も挙げられましたが、A. ラーブ博士のメール(2019)mでは「ハイドンやプレイエルといったオーストリアの作曲家の作品ではない」と明確に否定されました。
A. ラーブ博士(2015)21やメール(2019)mによれば「偽作はたいてい単一の資料しか残っておらずハイドンの活動範囲から遠く離れた場所で見つかっている(J. P. ラールセンの研究による)」ため、ドイツ中南部で唯一見つかった楽譜をオーストリアにいたプレイエルが作った可能性もないということです。
真の作曲者は誰かについてはまだ議論が進んでおりません。
【現在残された唯一の証拠はSLUB-Dresden所蔵譜のみ】
A. v. ホーボーケン(1957)17は「真正性はZiEXに唯一現存するコピー譜(=現在のSLUB-Dresden所蔵譜=IMSLPパート譜)に基づく」と記載していました。それ以外の根拠資料は見つかっていないようです。
A. ラーブ博士のメール(2019)mによるとSLUB-Dresden所蔵譜は「1800年頃にライプツィヒの写譜士が書いたコピー譜」らしいですが、今回中を読めた文献内に根拠は書かれていなかったので、おそらくJ. P. ラールセン(1939)14の論文またはハイドン全集19に記載があるものと思われます。
A. v. ホーボーケン(1957)17にてC. F. ポールがZiEXを基にスコアを作成(Divertimento Iにはクラリネットを追加)しそれがウィーン楽友協会に残されていることが書かれており、F. ニークス(1904)8やA. シュネリッヒ(1922)11ではそのスコアを閲覧したような編成で書かれていました。それ以外にもK. ガイリンガーが編集したスコアもありますが、どれもSLUB-Dresden所蔵譜が基になっており、SLUB-Dresden所蔵譜が残された唯一の証拠と言えます。
一方で、E. L. ゲルバー(1812)4ではCl, Hr, Fg, Serpentという編成、F-J. フェティス(1862)5では6つのDivertimentoのホルンの一部がトランペットになる編成で掲載されており、SLUB-Dresden所蔵譜とは細かな違いがあるため、過去には別の資料(または別の編成)があった可能性も考えられます。
【SLUB-Dresden所蔵譜の来歴】
現在IMSLPに掲載されている楽譜(ZiEx譜, SLUB-Dresden所蔵譜)は、「ブライトコプフのカタログ」(1782-1784)に楽曲が掲載されて以降、1800年代のライプツヒィの写譜士によって作成され(A. ラーブ博士(2015)21)、A. C. エクスナーによって購入され死後地元ツィッタウの教会に寄贈されました。その後、一時期C. F. ポールが入手し、書き写すなどしてスコアがウィーン楽友協会に所蔵されますが、原本はその後ザクセン州立図書館(SLUB-Dresden)に保管されております。
【作曲年代は1780年代前後か】
6つのDivertimentoについては「ブライトコプフのカタログ」(1782-1784)に掲載されているという事実から、1780年代前後に作曲されたことについて現在の研究者は特に異論を唱えていません。
E. ルンツ(1909)10は「18世紀にJ. Andréから出版」としていたため、作曲年も18世紀と考えることはできます。
A. シュネリッヒ(1922)11では1761年に作曲(または出版)されたとしていましたが、A. v. ホーボーケン(1957)17ではその部分を「1761年からの期間に作曲した」という解釈をしています。H. ボートシュティーバー(1927補筆)12やK. ガイリンガー(1932→1946)13では「1780年代に書かれ1790年代(1793年頃)に編集された」としていましたが、A. v. ホーボーケン(1957)17では1790年代の編集の可能性を否定しています。
A. v. ホーボーケン以降誰も作曲・編集年代について意見を述べていません。
【作曲地域も不明】
ハイドン作品だと思われていた1939年頃まではハイドンがいたアイゼンシュタットまたはフェルテードあたりだと思われていたと思いますが、ハイドン作品ではないと明らかになってからは作曲された国や地域について特に議論はありません。真の作曲者と一緒に判明するでしょう。
なお、A. ラーブ博士はメール(2019)mで「フランスの可能性はある(ただし根拠は全くない)」としています。フランス方面の書籍や研究が全くないため、フランス方面での調査が待たれます。
【初版出版社も出版年も不明】
F-J. フェティス(1862)5では、「パリのSieber社、Janet社、Porro社、オッフェンバッハのAndré社」を出典としており(ただしA. v. ホーボーケン(1957)17は同資料で「ブライトコプフが出典」と読んでいる)、E. ルンツ(1909)10では「18世紀にJ. Andréから出版され、その後1782年にブライトコプフに掲載された」としていました。これについてはその後誰も検証していません。インターネットで閲覧できるヨハン・アンドレ社設立後のアーカイブには掲載されていませんでしたが、ヨハン・アンドレ社設立以前にアンドレ本人から出版されていたとしたら可能性が0とは言えません。
IMSLPには「1782年にブライコプフから初版された」という記述がありましたが、これは「1782-1784年のブライトコプフのカタログに掲載されている」というだけで、初版か否かはわかりません。
1782-1784年のブライトコプフのカタログに掲載されているという事実は変わらないため、その時期(1780年代以降)には存在していた作品であることは間違いありません。SLUB-Dresdenの所蔵譜を最初にコレクションしたA. C. エクスナーの活動期間(1771-1847)を考慮してもそれは間違いはないでしょう。
A. ラーブ博士はメール(2019)mで「重要なのはライプツィヒ等ドイツ中南部で錯誤帰属が起きたこと」だとしています。
【作曲目的は不明】
ハイドンの偽作であると判明する前までは、C. F. ポール & H. ボートシュティーバー(1878-1882)7・(1927補筆)12・K. ガイリンガー(1932→1946)13では「エステルハージ家の軍楽隊のために書かれた」としていましたが、J. P. ラールセン(1939)14以降は偽作扱いのため作曲目的は明らかになっておらず言及もされていません。
【6つのDivertimentoの編成は八重奏】
1800年頃の写譜だといわれますがSLUB-Dresden所蔵譜が残っていますので楽曲構成に謎はありません。6つのDivertimentoは8つの楽器のために書かれており、おおむね2Ob, 2Hr, 3Fg, Serpentまたは2Ob, 2Cl, 2Hr, 2Fgの八重奏です。IMSLPで見られるK. ガイリンガーのスコア(1932)はセルパンをコントラファゴットに書き換えていましたが、1909年の国際音楽学会議で既にコントラファゴットによる演奏が行われています。
先にも述べた通り、E. L. ゲルバー(1812)4ではCl, Hr, Fg, Serpentという編成で書かれていたり、F-J. フェティス(1862)5では6つのDivertimentoのホルンの一部がトランペットになっていたりと細かな違いがあります。これらはC. F. ポールが1870年頃にブラームスに見せる以前の情報(=6つのDivertimentoの音楽界での認知度が高まる以前の情報)です。このSLUB-Dresden譜との違いが過去に存在した何か別の根拠に基づくものかどうか注目すべきだと考えます。
F. ニークス(1904)8や(11)A. シュネリッヒ(1922)11では十重奏で記載されていますが、ウィーン楽友協会に残っていると思われるA. v. ホーボーケン(1957)17のいう「C. F. ポールがクラリネットを追加したスコア」に由来している可能性が高いため、ここでは重要視しません。
【楽曲形式は結論なし】(フランス組曲風か舞曲によるドイツの変奏組曲か不明)
H. ボートシュティーバー(1927補筆)12では「6つのDivertimentoは組曲のようなもので、通常4~5楽章構成で、たいてい第一楽章は行進曲(マーチ)で、全ての曲にメヌエットがあります。フランスの組曲のように、緩徐楽章にはLa vierge Marie, Dolcema L’amour, Chorale St. Antoniのタイトルがついている」としています。これらのタイトルについてはA. v. ホーボーケン(1957)17では「よく知られたメロディーの引用かもしれないが証明されていない」としています。
一方、K. ガイリンガー(1932→1946)13では「17世紀から18世紀にかけてのフランスの組曲の傾向を彷彿とさせ、4つの楽章で構成されており、どの楽章もメロディーに関係性があり、例えばDivertimento Iは「Chorale St. Antoni」の変奏曲といっていいかもしれないとしています。様々な舞曲が構成された17世紀の古いドイツの変奏組曲の復活と循環的な形式の予告」としています。フランスの組曲の傾向としつつも舞曲による17世紀の古いドイツの変奏組曲としています。
フランスの組曲風であることを否定する意見はでていませんが、舞曲によるドイツの変奏組曲という意見も否定されていません。偽作とされてからは楽曲形式についてあまり議論されていないようです。
Divertimento Iに関してはE. ルンツ(1909)10でも述べられており、「第一楽章は小ソナタ形式、第四楽章のロンド・アレグレットは第二楽章のコラールを彷彿とさせる」と記しています。H. ボートシュティーバーやK. ガイリンガー以前に構成に触れていましたが、「フランス組曲風」や「ドイツの変奏組曲」については言及していません。しかし、旋律の類似性についてはK. ガイリンガーよりも前から述べられていました。
【Chorale St. Antoniは独特だが由来はよくわかっていない】
Chorale St. Antoniについてはブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲 op.56」にテーマが引用されていることから、C. F. ポール (1878-1882)7以降ほぼ全員(今回読めなかった論文や書籍でも記載されているでしょう)が言及しています。
E. ハンスリック(1873)6で述べた「おそらく巡礼歌」という説明は何度も様々な文献で登場しながら時代を越えて現在まで受け継がれておりますが、根拠は定かではありません。ただし、「根拠がないから巡礼歌ではない」と言い切れるものでもありません。
K. ガイリンガー(1932→1946)13では「古いオーストリア(ブルゲンラント)の巡礼歌」という表現も追加されましたが、ブルゲンラントはアイゼンシュタットのある地域であり、ハイドンの真作でないためブルゲンラントである可能性は根拠が薄いと言わざるを得ません。インターネット上でときおり見られる「ブルゲンラントから聖アントニ(パドヴァのアントニオ)礼拝堂へ巡礼するときのコラール」という詳細な説明は誰が言ったのかまだ発見できておりません。
E. ハンスリック(1873)6は「Chorale St. Antoni」の5小節リズムの独特さを指摘していましたが、こちらもたびたび引用されており、E. ルンツ(1909)10では「5小節単位の独特さ」、 A. シュネリッヒ(1922)11では「奇数と偶数のリズムが交互にあるのが不思議」と表現しています。
現在の日本を含め、多くの方が「聖アントニのコラール」という表現をしていますが、 A. シュネリッヒ(1922)11では「聖アントニの聖歌(Hymnus Sti Antonii)」としています。
A. v. ホーボーケン(1957)17は他のDivertimentoのタイトル付きの楽章も含めChorale St. Antoniを「有名なメロディーから引用したかもしれないが証明されていない」としており、それ以降の研究者が深く調べたような文献は見つかっていません。
【結論】
「ハイドンのディベルティメント」を含む6つのDivertimentoは1939年以降ハイドンの作品ではないことが明らかになり現在でも支持されていますが、これまでの研究の主題は「ハイドン作か否か」が争点であり、それ以外についてはまだほとんど研究が行われていないことがわかりました。現在原譜が見つかっておらず1800年頃の写譜も1つしか残っていないことからも、真の作曲者は判明していません。この曲の詳細な情報はまだ未知であるといえます。
今後どこかで原譜や別の写譜が発見されれば、また調査は進んでいくものと思われます。
◆すべてのまとめ
★聞き取り調査・文献調査をまとめた解説
以上の結果を踏まえて、解説を作りました。
1951年頃H. C. R. ランドンにより真の作曲者はI. プレイエルの作品ではないかという説が出され、1954年のグローブ大辞典第5版及び1957年のA. v. ホーボーケン作品目録により広まりましたが、現在はJ. P. ラールセンの研究やA. ラーブ博士らヨーゼフ・ハイドン研究所によってI. プレイエルを含めたオーストリアの作曲家が書いた可能性は否定されています。
ハイドンの作曲ではないという理由は、自筆の原稿及びスコアが残っておらず、ハイドンが活動していたアイゼンシュタット(オーストリア)にも一切資料がなく、1800年頃にライプツィヒで作られた写譜のパート譜だけが唯一ドイツに残されているだけであり、これはハイドンの贋作によくあるパターンだからといわれています。
その唯一のパート譜はツィッタウのA. C. エクスナーのコレクションに所蔵された後、ウィーン楽友協会を経て現在はSLUB-Dresdenに所蔵されておりIMSLPでも閲覧できます。真の作曲者は2020年現在でも判明していません。
6曲のDivertimentoのうちいくつかでは緩徐楽章に「Chorale St. Antoni」のようなタイトルがついていますが、有名な曲からの引用だったのかそうではないのかの証拠はありません。
「Chorale St. Antoni」についてもE. ハンスリックやK. ガイリンガーらにより「おそらく古いオーストリア(ブルゲンラント)の巡礼歌」といわれてきましたが、これも根拠が不明です。ブルゲンラントについてはハイドンの可能性がないため可能性は低いですが、巡礼歌ではないと断定できるものはありません。
楽曲構成は一部の引用された曲のタイトルがフランス語「Aria La vierge marie」だったり、一部の楽曲にはセルパンが使用されていたり、全曲にメヌエットが用いられる等のフランス風の構成をしていますが、フランスで作曲されたという根拠は見つかっておらず、一方で舞曲を基に構成された17世紀の古いドイツの変奏組曲とする意見もあるなど確定されてはおりません。
1780年頃に作曲され、ハイドンやプレイエルの作品ではないこと以外は実際のところ確定できる研究はまだないといえるでしょう。これは今までの研究の主題が「ハイドンの作品か否か」だったためやむを得ないことだと思います。詳細については今後真の作曲家がわかってくれば、あるいは真の作曲家が明らかになる過程で判明していくものだと思われます。
ただし、ブラームスに引用されたことや現在木管五重奏で愛されていることからも、その作品がハイドンのものではなくとも音楽史的に重要な作品であることは言うまでもありません。
●木管五重奏Hob.II:46 の楽曲解説としての記載例
もし私がこの調査結果をもとに演奏会にプログラムに記載するなら、2020年時点では以下のように掲載したいと思います。
ハイドン作品として長らく信じられており、ブラームスがこの曲の第二楽章「Chorale St. Antoni」を自作の「ハイドンの主題による変奏曲 op.56」に引用したため現在もハイドンの作品だと思われていますが、1939年の研究以降このディベルティメントはハイドンの作品ではないことが判明しています。真の作曲者が誰かは現在までわかっていません。
このDivertimentoは1780年頃に「6つのDivertimento」の1曲目として作曲され、編成はオーボエ・ホルン・ファゴット・セルパンからなる8重奏(ハルモニームジーク)でした。1932年に音楽学者のK. ガイリンガーが強弱・速度標語・アーティキュレーション等を編集し、さらに1942年にアメリカの編曲者・編集者H. ペリーにより管楽五重奏用に編曲され現在でも人気の作品です。ハイドンの作品でなくともその親しみやすく美しいフレーズは今後も人気が衰えることはないでしょう。楽曲は4つの楽章から成り、特に第三,第四楽章の旋律が第二楽章「Chorale St. Antoni」と類似してるのは特徴的です。
第一楽章: Allegro con spirito
第二楽章: Andante quasi allegretto
第三楽章: Menuet-Trio
第四楽章: Rondo – Allegretto
以上でDivertimentoについての調査はここで終わりますが、残された謎について引き続き調査をしていますのでよろしければ続きをご覧ください。
◆残された謎 Chorale St. Antoni
Divertimentoがハイドンやプレイエル作ではないことはわかりましたが、ブラームスが引用した「Chorale St. Antoni(聖アントニのコラール)」については不明な点が多いです。来歴、原曲、作曲者は誰か、歌詞はあるのか等々…。ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」が好きな方は、Diveritmentoそのものよりもこちらの方が一番気になるところだと思いますので、さらに調べてみました。
●インターネット調査(2020年時点)と分析
インターネットで「Chorale St. Antoni」の作曲者や引用元の情報を調べた結果は以下のように纏められます。
1.I. プレイエル作説
いくつかの代表的なウェブサイトでは「聖アントニのコラールはハイドン作ではなく、最近の研究ではI. プレイエル作である可能性がある。」(IMSLP, Libraria Musica, Wikipedia日①,Wikipedia日②)としており、これは6つのDivertimentoの作曲者をプレイエルかもしれないとしたH. C. R. ランドン(1951)15、グローヴ第5版(1954)16、A. v. ホーボーケン(1957)17あたりの説を踏襲していると思われます。
しかし、前述のとおりハイドンやプレイエルといったオーストリアの作曲家がDivertimentoを書いた可能性はないため否定されます。
2.巡礼歌説・当時有名だったメロディー説
かなり多くのウェブサイトで支持されている説が「巡礼歌の可能性」・「ブルゲンラントの巡礼歌」・「ブルゲンラントの聖アントニの礼拝堂への巡礼の間に、パドヴァの聖アントニに敬意を表して歌われた巡礼歌」(Wikipedia独, Mon Musee Musical, IMSLP, “The Book of World-famous Music: Classical, Popular, and Folk p.525” )で、これはE. ハンスリック(1873)6の「おそらく巡礼歌」やK. ガイリンガー(1932→1946)13の「古いオーストリア(ブルゲンラント)の巡礼歌」を踏襲していると思われます。
それ以外にも「聖アントニのコラールはハイドン作ではなく、巡礼歌(または当時有名だったメロディー)を引用したものの可能性がある。」(Villa Musica, Libraria Musica, 新交響楽団, Mon Musee Musical)と、「当時有名だったメロディー」という表現が追加されているものも多く、これはA. v. ホーボーケン(1957)17が述べた「有名なメロディーから引用したかもしれないが証明されていない」を追加したものと思われます。さらに詳細に踏み込んでるものでは「古い巡礼歌であるとか、ハイドンの時代に良く知られた旋律であったともされ、事実バロックから古典派にかけての何人かの作曲家がこの旋律を使っている」(Libraria Musica)とも書かれています。
まとめの「Chorale St. Antoni」で述べたように、「巡礼歌の可能性」は根拠はありませんが否定できるものでもありません。
「ブルゲンラントの巡礼歌」はハイドン作品ではない以上、ブルゲンラントである可能性は低いといえるでしょう。
「ブルゲンラントの聖アントニの礼拝堂への巡礼の間に、パドヴァの聖アントニに敬意を表して歌われた巡礼歌」は出典がわかりませんが、ブルゲンラントの可能性が低いですのでやや微妙なものかと思われます(「パドヴァの聖アントニに敬意を表して」は否定する材料がありません)。
つまり、「巡礼歌の可能性」は残されているといえます。
「当時有名だったメロディー」についても否定する材料はありません。
Libraria Musicaで述べられている「事実バロックから古典派にかけての何人かの作曲家がこの旋律を使っている」については他の作曲家が引用していた例を見つけていないので判断できません。どなたかご存知でしたら情報をお寄せいただけますと幸いです。
以上より、巡礼歌・当時有名なメロディーだった可能性は否定されていません。
なお、巡礼歌については巡礼中に歌っているような漠然としたイメージを持っていました(ディズニー映画とかの劇中歌の影響でしょうか…)が、ちゃんと調べてみたところ、どうやら巡礼に向かう前の教会や巡礼地の教会で歌うもののようです(カトリック中央協議会「大聖年における巡礼の祈り」)。宗派によって異なることも多いと思いますが、概ね教会で歌われるものだと思います。なお、ドイツではプロテスタントが多く、プロテスタントは基本的に巡礼を行いませんので、巡礼歌という場合はカトリックになります。
3.未知のテーマ説
数は少ないですが、「ハイドンが書いたのか、未知の古いテーマから引用したのかわかっていない。」(Wikipedia英)と書かれているものもあります。これも先ほどと同様にK. ガイリンガー(1932→1946)13の「古いオーストリア(ブルゲンラント)の巡礼歌」やA. v. ホーボーケン(1957)17の「有名なメロディーから引用したかもしれないが証明されていない」をぼやかして踏襲していると思われます。
ハイドンではありませんが、未知の古いテーマという意見は否定されていません。
以上より、Chorale St. Antoniについては巡礼歌・当時有名だったメロディー・未知の古いテーマの可能性は否定する根拠がなくが残っています。
ところでChorale St. Antoniの楽譜を見てみますと最終小節が二重全音符になっており、これは拍どおりではなく伸ばして終わるというルネサンスあたり(16世紀頃)の教会音楽の楽譜に見られる書き方と類似しています。このことから、個人的には巡礼歌または宗教音楽からテーマを取った可能性が少し高い気がします。他の6つのDivertimentoではそのような書き方をした部分はありません。もちろん、教会音楽のように見せるためにあえてそのような書き方をした可能性もありますが…。
●St. Antoniは誰?可能性は2人
さて、これまでずっとSt. Antoni(聖アントニ)という言葉を使ってきましたが、実はSt. Antoniが誰なのかわかっていません。なぜなら、キリスト教に聖アントニと名の付く有名な聖人は2人いるからです(有名でなければもっといるはずです)。先ほどちらっと「パドヴァの聖アントニに敬意を表して」は否定する材料がないといいましたが、同時に積極的に肯定することもできないのはこのためです。
この2人はややこしくて混同している書籍やウェブサイトはたくさんあります。
St. Antoniの候補の1人目が大アントニオス、2人目がパドヴァのアントニオです。
– 大アントニオス
一人目の大アントニオスは、3世紀エジプト生まれの聖人です。Wikipediaでは聖人大アントニオス(Antonius, Anthony the Great, Antonius der Große, Antoine le Grand, 約251-356)で記載されており、勤勉で誘惑に打ち勝つような聖人として絵画に描かれることもあるようです。修道者の父のように言われたりもします。また、大アントニオス会の修道士が麦角中毒の治療に優れており、中世では大アントニオスに祈ったり巡礼に行くことで治ると信じられていました(実際のところは、大アントニオスの巡礼等に行くことで麦角菌に汚染された食物を口にせずに済むようになったからのようです)。ブラームスの辞書さんではこちらの大アントニオスであるとしています。
この大アントニオスはカトリックだけでなくプロテスタントのルーテル派(ルーテル教会)、正教会等でも崇敬されており、正教会では勤行者克肖者聖大アントニイと呼ばれるようです。
カトリックでは巡礼を行いますので巡礼地も調べました。
大アントニオスの巡礼地はエジプトの大アントニウス修道院(Monastery of Saint Anthony)かと思われますが、実は大アントニオスの遺体は晩年を過ごし埋葬された山頂→361年にエジプトのアレクサンドリア→コンスタンティノープル(現在のトルコ・イスタンブール)→11世紀にはビザンツ帝国皇帝からフランスのジョセリン伯爵(Jocelin de Châteauneuf)へ→1070年ジョセリン伯爵がフランス南部のラ=モット=サン=ディディエ(La-Motte-Saint-Didier, すぐにサン=アントワーヌ=ラベイ(Saint-Antoine-l’Abbaye英,仏=日本語直訳では「聖アントニの修道院」)に改名)に輸送→1297年にサン=アントワーヌ=ラベイ修道院(Abbaye de Saint-Antoine-l’Abbaye)に安置と変動しました。このため、ヨーロッパでの大アントニウスの崇拝と巡礼の中心は最終地のフランスのサン=アントワーヌ=ラベイになりました。その後、1491年にはアルルのサンジュリアン教会(Église Saint-Julien)に遺物が移されたようですが、全部なのか一部なのか不明かつ、アルルのサンジュリアン教会の遺物は偽物という説もあり(Wikipedia蘭)詳細は不明です。昔の聖人すぎて遺物の存在が不確かなのも要員でしょう。
このようにエジプト生まれの聖人でしたがヨーロッパではフランス南部が巡礼地となったのでした。オランダ北東部やドイツ北西部に毎年お祭りを行う地域もあるようです。
大アントニオスについて、音楽ではP. ヒンデミットが画家マチスの中でとりあげています。
– パドヴァのアントニオ
もう一人はインターネット調査でも出てきたポルトガル生まれの聖人パドヴァのアントニオ(Anthony of Padua, 1195-1231)です。説法がとても上手だったといわれ、魚に説教する聖アントニウスのエピソード及び絵画がとても有名です。G. マーラーはこのエピソードが収録されたドイツの民謡集「子供の不思議な角笛(少年の魔法の角笛)」から歌曲を作曲していますYoutube。
パドヴァのアントニオはカトリックだけで崇敬されております。どうやらプロテスタントや正教会では崇敬の対象ではないようです。ドイツではプロテスタントが多いのでそのドイツの民謡集に含まれているのは不思議ですが、民謡集の作者の1人がカトリックで洗礼を受けたようなので納得しました。
パドヴァのアントニオの巡礼地はイタリア・ヴェネツィア付近のパドヴァにあるサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂やポルトガル・リスボンにあるサント・アントニオ・デ・リシュボア教会だと思われます。
インターネットの「ブルゲンラントの聖アントニの礼拝堂への巡礼の間に、パドヴァの聖アントニに敬意を表して歌われた巡礼歌」の表現については、先ほどブルゲンラントの可能性は低いとしましたが、念のためブルゲンラント(アイゼンシュタット)に「聖アントニ聖堂」があるか探してみました。すると、アイゼンシュタットに聖アントニの名が付く聖堂はありませんでしたが、アイゼンシュタットにある病院「Krankenhaus Barmherzige Brüder」(公式HP)内にある病院教会「Barmherzigenkirche」(参考:eisenstadt-leithaland)がハイドンを雇用したポールⅡ・アントン・エステルハージ(1711~1762, Wikipedia英・Wikipedia独)によって1739年に建てられ、聖人パドヴァのアントニオに捧げられていたことがわかりました。
この教会はハイドンの小オルガン・ミサ曲が初演された場でもありますが、ハイドンに非常に身近だった教会という点がむしろ「St. Antoni」がパドヴァのアントニオである可能性を遠ざける気がします。
大アントニオスかパドヴァのアントニオなのか確固たる根拠はありませんが、パドヴァのアントニオはハイドンに近いが故やや順位が下がったように思います。
●Chorale St. Antoniは「コラール(讃美歌)」ではない?
Chorale St. Antoniは日本語で「聖アントニのコラール」といわれますが、皆さんが想像するコラール(讃美歌)ではない可能性があります。
実際、 A. シュネリッヒ(1922)11は「聖アントニの聖歌(Hymnus Sti Antonii)」としていました。
コラール(英: Chorale)は日本では一般的にキリスト教プロテスタントのルター派(ルーテル教会)によって歌われる讃美歌のことを指します。コラール(讃美歌)の特徴は、ルターが「教会でラテン語ではなくドイツ語を用いるべきである」という主張をしたため、例えばルター自身がドイツ語で作詞と作曲をした「神はわがやぐら(Ein’ feste Burg ist unser Gott)」のようにドイツ語によるものが中心です(余談:Ein’ feste Burg ist unser GottはJ. S. バッハ、F. メンデルスゾーン、J. ラフといったルター派の作曲家が自作に用いたりしています)。ドイツはプロテスタント(ルーテル教会)の作曲家が結構多いです。
コラール(讃美歌)の場合言語によって表記が異なっており、英語ではChoraleですがフランス語やドイツ語ではChoralです(Wikipedia仏, 独)。
「Chorale St. Antoni」はChoraleであり、英語のChoraleかそれ以外の言語になります。英語以外のChoraleはフランス語にありますが、単純にコーラス(合唱、合唱団、聖歌)の意味(Glosbe)になります。そう、フランス語の「Chorale(合唱・合唱団・聖歌)」の可能性が高いのです。
Choraleがフランス語である可能性が高い理由は「Chorale St. Antoni」以外に6つのDivertimentoで引用されている曲名が「Dolcema l’amour」「Aria la vierge marie」とフランス語が使われているためです(Dolcemaは謎の単語ですが、The New grove dictionaryによるとピアノの先祖ともいわれる打弦楽器ダルシマー(仏Doucemelle)のスペイン語とされています。現代スペイン語ではDulcémele)。つまり、ほぼフランス語で「愛のダルシマー」となります)。
引用曲名を訳すと
●Chorale St. Antoni=聖アントニのコーラス(合唱・合唱団・聖歌)
●Dolcema l’amour=愛のダルシマー
●Aria la vierge marie=聖母マリアのアリア
という意味になるのです。
ただ、絶対にコラール(讃美歌)でなかったかどうかはDivertimentoやChorale St. Antoniの作曲者が判明しないと断定できません。カトリックの聖歌をプロテスタント用にドイツ語に直してコラール(讃美歌)にしたものもたくさんあるからです。
「聖歌」と明記した資料はA. シュネリッヒ(1922)11しかなく、原曲も分からない以上日本語で「合唱」か「聖歌」か「讃美歌」か断定させることはできません。そういう意味ではフランス語のカタカナ読みで「コラール」のままでもいいかもしれません。しかし、日本語のコラールは讃美歌を意味することが多いので、誤解を招きかねません。
聖歌も讃美歌も日本語のカタカナではコーラスに含めることができますので、日本語で書く場合、讃美歌と思ってしまいそうな「聖アントニのコラール」よりも「聖アントニのコーラス」の方が意味的には誤解が少ないと思われます。
さすがに「コーラス」はどうなの…??と感じる場合、Choraleをローマ字読みして「聖アントニのコラーレ」でもいいかもしれません。
– 讃美歌かコーラス(聖歌・巡礼歌・合唱)か確定できない
Choraleはフランス語の可能性が高いですが、St. Antoniはフランス語ではありません。フランス語ならSaint Antoine(サン=アントワーヌ)になるはずです。このため、St. Antoniはラテン語の可能性が高いと思われます。ラテン語が使われている場合は基本的にカトリックの聖歌・宗教音楽ですので、讃美歌(コラール)よりも巡礼歌・宗教音楽の可能性は上昇し、Chorale St. Antoniもカトリック系の作曲家(ドイツ作曲家はプロテスタント(世界史の窓)が多く、フランス・イタリア・スペイン・オーストリア等にカトリックが多い)が作った可能性が示唆されます。フランス語による引用タイトル表記とSt. Antoniがのラテン語表記(つまりカトリック曲っぽいこと)がA. ラーブ博士や他の研究者たちがDivertimentoを「フランス風」といっていた理由にも近づくでしょう。
ではDivertimentoもカトリック系の作曲者が…?と思うかもしれませんが、落とし穴が一つ。ハイドンがカトリックだということです。そう、偽作である以上ハイドン作だと思わせるためにカトリック曲を用いフランス語タイトルを付けた可能性もあり得るからで、こうなってしまうとChorale St. Antoniをプロテスタント系作曲者がそう見えるように作った可能性があるし、さらにはDivertimenをプロテスタントの作曲者が作った可能性だってあるのです。もしプロテスタント系の作曲家が作っていた場合、プロテスタントは巡礼をあまりしないため巡礼歌よりも讃美歌の可能性が高まります。
「6つのDivertimentoはハイドン作品ではない」という事実が「ハイドン作だと思わせるためにフランス風・カトリック風に書いたのではないか」という疑いから逃れられなくします。単に誰かの作品をハイドン名に変えただけならまだしも、絵画にあるような贋作を意図して作られていたとしたらその可能性も否定はできないです。
絶対にコラール(讃美歌)ではかったかどうかも結局は証拠が不足しているので確定できません。
★Chorale St. Antoniの旋律かタイトルが使われた曲
– 旋律が使われた曲は見つからない
先述のとおりLibraria Musicaさんには「古い巡礼歌であるとか、ハイドンの時代に良く知られた旋律であったともされ、事実バロックから古典派にかけての何人かの作曲家がこの旋律を使っているとのこと」と書かれておりました。とても興味深い情報なのですが、一次情報がわからなかったためこれ以上探せませんでした。
バロック~古典期の作曲家はどの程度・どんな曲に使っていたのか、使った作曲家は誰なのか、とても気になります。もし何かご存じの方がいらっしゃいましたら是非ご教示ください。
– 聖アントニと題された曲は1つ発見した
インターネット上でChorale St. Antoniを探しても全てハイドンのディベルティメントかブラームスの変奏曲しか出て来ませんでした。
そこで、プレイエル説を広める一因となったGrove Dictionaryですが辞書としては膨大な情報を持っているためどこかに情報があるかもしれないと考え、いくつかAntoniというキーワードで検索してみました。 するとNew grove dictionary 1916にて1件ヒットしました。
それがC. モラーレス(Cristóbal de Morales)のモテット「Sancte Antoni pater monachorum」です。
どうやらOtto Kade(音楽学者)が編集した書籍 「Geschichte der Musik」(音楽史)に掲載されているようです。
– C. モラーレス: モテット「Sancte Antoni pater monachorum」(音源付き)
「Geschichte der Musik」(音楽史)はA. W. アンブロス(August Wilhelm Ambros, 1816-1876)が執筆し、Otto KadeやWilhelm Langhansが編集した書籍です。このモテットが掲載されているのは1882年に出版された第5巻(Otto Kade編)の595ページでした。
そこには楽譜とともに以下の記載があります(楽譜は是非原文をご覧ください)。
クリストフェロ・モラーレス
モテット: 「修道士の父 聖アントニ」4声
アンブロース 第3巻.p.587参照
ニコラ・ゴンベール モテット集, 4声, ヒエロニムス・スコット, ヴェネツィア, 1541年, No.11。(ドイツのシュヴェルンにあるメッテンハイマー博士の所有するUnicumは、序文と第33の61、62の注釈を参照。)
作曲者はCristofero Morales(Cristóbal de Morales, クリストバル・デ・モラーレス, 約1500-1533)で、この楽譜は当初ヴェネツィアのHieronymus Scotus(Girolamo Scotto, ヒエロニムス・スコット, 約1505-1572)がニコラ・ゴンベール(Nicolas Gombert, 約1495年〜約1560年)の名を冠して出版したモテット集(1541年)の第11番に掲載されました。その後A. W. アンブロス(またはOtto kade)がGeschichte der Musik(音楽史)に収録したと思われます。
せっかくなので曲を聴いてみたいと思いましたが、動画や音源が見つからなかったのでMuseScore 3にてmp3を作成し、動画にしました。
お気づきでしょうか?「Sancte Antoni pater monachorum」の冒頭のソプラノの音型は「Chorale St. Antoni」の冒頭にそっくりですし、2小節目のアルトや7小節目のバスは音まで一緒のように思います。歌詞は以下のとおりです。
quicum angelis letaris
videndo faciem creatoris
intercede pro nobis vt mereamur
reddere domino hostiam laudis.
Secvnda PARS
O sancte Antoni gemma confessorum
devote plebi subveni sancta intercessione tua
vt tuis adjuti precibus
(vt tuis intercessione tua)
regna consequamur celestia et mereamur
reddere domino hostiam laudis.
※実際のモテットではところどころ繰り返して歌われます。
※ソプラノだけ第二部のカッコ書きを歌います。
歌詞はラテン語でありGoogle翻訳をしてもあまり意味は分かりませんでしたが、慈悲・献身・祈りのような単語がありましたので一般的なモテット(ミサ曲以外の宗教音楽)かと思われます。ラテン語に詳しい方がいらっしゃいましたら是非翻訳をお願いします(内容次第では次項の推測に影響しますので是非…)。
★Chorale St. Antoniについて推測
– 聖アントニはおそらく大アントニオスか
前述したように、Chorale St. Antoniの「聖アントニ」はエジプトの聖人大アントニオスか、ポルトガルの聖人パドヴァのアントニオかいまいちわからない部分がありましたが、C. モラーレスの「Sancte Antoni pater monachorum」を訳すと「聖アントニ 修道士の父」となり、これは修道士生活の創始者(修道士の父)とされる大アントニオスのことを指していると思われます。
ただ、歌詞の残りの内容がいまいちわかりませんので、内容次第ではもしかしたらパドヴァのアントニオかもしれません。パドヴァのアントニオは本名フェルナンドであり、宣教活動を行うにあたって大アントニオスに倣いアントニオに改名した(参考: POWERFUL MOMが行く!)からです。判明するのは歌詞次第でしょうか。
一応、大アントニオスの説を支持するかもしれない可能性としては、ヨーロッパでは西暦857年や943年、それ以降もたびたび麦角中毒と流行は起きていたようですが、1716~1717年にはドレスデンで麦角中毒の流行が起き、その後1770年と1777年にヨーロッパ中で麦角中毒の流行が起きていたようです(参考 Wikipedia英: Ergotism, Wikipedia独: Ergotismus(麦角中毒))。実際、デンマーク語の「Ignis Sacer et Sancti Antonii」という本には、1770-72,74,77年にフランスで流行が起きていたことが書かれています(ドイツ語の「Wissenschaftliche Annalen der gesammten Heilkunde」にはフランスの流行と共にドイツでも病気(麦角中毒か麦角菌汚染)があったと書かれています)。
大アントニオスに祈れば麦角中毒が治る(または麦角菌汚染が収まる)と信じられていた時代ですから、教会で「Chorale St. Antoni」を歌い祈ったり、または巡礼に向かうにあたって教会で歌っていた可能性も考えられます。1770年代にヨーロッパ中で麦角中毒(麦角菌汚染)が流行すると同時に「Chorale St. Antoni」も流行していたのかもしれません。
– 「Chorale St. Antoni」の歌いだしはこんな感じ?
C. モラーレスの「Sancte Antoni pater monachorum」の冒頭のソプラノの音型やアルト・バスの音が「Chorale St. Antoni」の冒頭に類似しているのは見逃せません。そこで、以下のように原本のハ音記号表記をすべてト音・へ音記号に置き換え、さらに原本の二部音符基準を現在の四分音符基準に直すとより類似性が分かる…かもしれません。
ここで重要なのは、音型とそこに書かれた歌詞です。
この「Sancte Antoni pater monachorum」の歌詞を「Chorale St. Antoni」に当てはめてみます。もし「Chorale St. Antoni」の歌詞が「Sancte Antoni pater monachorum」と類似していたとすれば以下のようになるのではないでしょうか。
St.が略されずにSancteだったとすれば、前半2小節がぴったりはまります。さらに真ん中の3小節目はpaterを入れることができます。後半2小節にmonachorumが入るのかもしれませんがこれは正直わかりません。しかし、これによりE. ハンスリックやE. ルンツ、A. シュネリッヒが言及してきたような「Chorale St. Antoni」の5小節の独特のリズムは、3小節目に「pater」が入ることで説明できてしまうのです。ずっと「Chorale St. Antoni」がなぜ5小節フレーズだったのか気になっており、特に3小節目のC-Bbが謎でしたが、paterが入るのだとすればしっくりきます。
このC. モラーレスのモテット「Sancte Antoni pater monachorum」の発見で、私はこの曲や元になった宗教音楽がベースになって1540年頃~1780年の240年間のうちに「Chorale St. Antoni」が作曲された可能性を提示したいと思います。
少なくとも、「Chorale St. Antoni」がDivertimentoの作曲者の完全オリジナル曲であるという可能性は低くなったのではないでしょうか。
また、「Chorale St. Antoni」がC. モラーレスのモテットから発展して作られたものだとすればカトリック系の作曲者によるものとなり、セルパンや楽曲でのフランス語の使用も含めると、大アントニオスの巡礼地があるフランス南部の教会の資料室あたりから発見されるかもしれません。またはフランス貴族とかに残された資料から「6つのDivertimento」の原本が見つかるかもしれません。
◆おわりに
★インターネット・文献調査結果にChorale St. Antoni謎を追加して記載
1951年頃H. C. R. ランドンにより真の作曲者はI. プレイエルの作品ではないかという説も出て1954年のグローブ大辞典第5版及び1957年のA. v. ホーボーケン作品目録により広まりましたが、現在はJ. P. ラールセンの研究やA. ラーブ博士らヨーゼフ・ハイドン研究所によってI. プレイエルを含めたオーストリアの作曲家が書いた可能性は否定されています。
ハイドンの作曲ではないという理由は、自筆の原稿及びスコアが残っておらず、ハイドンが活動していたアイゼンシュタット(オーストリア)にも一切資料がなく、1800年頃にライプツィヒで作られた写譜のパート譜だけが唯一ドイツに残されているだけであり、これはハイドンの贋作によくあるパターンだからです。
その唯一のパート譜はZittauのExnerコレクションに所蔵された後、現在はSLUB-Dresdenに所蔵されておりIMSLPでも閲覧できます。真の作曲者は2020年現在でも判明していません。
6曲のDivertimentoのうちいくつかでは緩徐楽章に「Chorale St. Antoni」のようなタイトルがついていますが、有名な曲からの引用だったのかそうではないのかの証拠はありません。「Chorale St. Antoni」についてもE. ハンスリックやK. ガイリンガーらにより「おそらく古いオーストリアの巡礼歌」といわれてきましたが、これも根拠が不明です。
ただ、「Chorale St. Antoni」については16世紀の作曲家C. モラーレスのモテット「Sancte Antoni pater monachorum」と旋律が類似している部分があり、宗教音楽に由来している可能性が示唆されます。根拠はありませんが、16~18世紀にモテットを基に「Chorale St. Antoni」が作られたのではないでしょうか。また、St. Antoniとは聖人大アントニオスを指している可能性が高く、6つのDivertimentoが作曲された1780年頃にはヨーロッパで麦角中毒が流行していたことも踏まえると、引用された各タイトルは「当時流行していた曲」や「宗教音楽」であるとか思われます。
一部の楽曲にセルパンが使用されていたり、全曲にメヌエットが用いられる等のフランス風の構成をしていたり、一部に引用された曲のタイトルがフランス語だったり、Chorale St. Antoniが引用された過程から考えると、カトリック系の作曲家による作品で、ドイツではなくフランスの方で作曲されたと推測されますが、フランスで作曲された確固たる根拠は見つかっていないため推測の範疇を出ません。一方で、舞曲を基に構成された17世紀の古いドイツの変奏組曲とする意見も否定する根拠がないため、真の作曲家が誰かは不明であり、楽曲形式もフランス風なのかドイツ風なのか確定できる情報はありません。
1780年代に作曲され、ハイドンやプレイエルの作品ではないこと以外は実際のところ確定できる研究はまだないといえるでしょう。これは今までの研究の主題が「ハイドンの作品か否か」だったためやむを得ないことだと思います。詳細については今後真の作曲家がわかってくれば、あるいは真の作曲家が明らかになる過程で判明していくものだと思います。
ただし、ブラームスに引用されたことや現在木管五重奏で愛されていることからも、その作品がハイドンのものではなくとも大切にしたいものであることは言うまでもありません。
– おわりに
まだまだ世界の研究者が研究中の内容であり、結論がまったく出ていないものです。それでも、この記事でぼんやり語り継がれてきた口伝の部分・都市伝説のように伝えられてきた内容の根拠を明らかにできたことや、C. モラーレスのモテットを発見してChorale St. Antoniとの類似性を指摘できたのにはとても意味があると思います。
ハイドンのものか疑わしかったHob.II:F7の原稿が見つかってP. ヴラニツキーの「Partita for Winds in F major」だと判明したように、このHob.II:41-46も原稿や別の写譜が見つかって真の作曲者と論争に決着がつく日を心待ちにしています。
是非、どなたかこの歴史と謎に挑戦してみませんか。
この木管五重奏曲をハイドン作曲と信じて疑わず演奏した身としては一抹の寂しさはありますが、贋作と分かった以上は可能な限り根拠やルーツを知りたいので大変興味深く読ませていただきました。尊敬と共に感謝の気持ちでいっぱいです。
ハイドン作曲であろうとなかろうと素晴らしい曲なので、これからも愛されていってほしいですね。
匿名様
記事をご覧いただき誠にありがとうございました。
当時の貴族たちはこのような曲をBGMに飲食歓談をしていたのかと思うと少し羨ましいですね。
Hob.II:46(通称ハイドンのディベルティメント)以外の5曲も曲調は似つつ聴きやすいのでもっと演奏される機会があるといいなと思います。