マーラー 交響曲第1番 第三楽章 を徹底調査!(楽譜・音源付き)

こんにちは、H. Châteauです。以前G. マーラーの交響曲第1番第一楽章を徹底調査しましたが、まだまだ楽章が残っていましたので残りの楽章も徹底調査していきたいと思います。この記事では第三楽章を追求していきたいと思います。マーラーの生い立ちやたくさんの作曲家の影響・関わりについては第一楽章の記事をご一読ください。なお、第三楽章は日本・海外含め深く調査・考察したサイトがなかったため、個人的解釈や個人的見解が第一楽章よりもかなり多いです。十分ご注意ください。

注意
  • とにかく記事が長いため、覚悟をお願いします。
  • 出典のサイトや参考とした楽譜も掲載していますが、一般的に言われていない独自解釈も多分に含みますので、正確性についてはご自身でご判断願います。
  • 掲載してある動画や楽譜の量がとてつもなく多いため、PCで見ることをお勧めします。PC以外だと画像のレイアウトが崩れる可能性があります。
  • 掲載されている楽譜は切り抜いているため、スコアをお持ちの方はスコアを見ながら読んだ方がわかりやすいと思います。 

マーラー 交響曲第1番 第一楽章 を徹底調査!(楽譜・音源付き)

2018年4月17日

◆第三楽章を読み解くうえで必要な情報

数ある交響曲の中で、日本の子供が聞いてもわかるフレーズを使っている曲はごくわずかです。この第三楽章は聴き始めて数秒で「あ、聴いたことある!なんか暗い!笑」となる楽章ではないでしょうか。そう、この楽章で使われているのは、日本の童謡(手遊び歌)で歌われている「グーチョキパーでなにつくろう」を短調にしたものです。英語圏でも「Are You Sleeping?」として知られるこの歌は、もともとフランス民謡「フレール・ジャック(Frère Jacques)」でした。

この楽章もさまざまなオマージュや曲の引用・自作の転用で成り立っており、深く理解しようとするならたくさんの事前情報が必要になります。まずはそのあたりを掘り下げていきます。

第三楽章に繰り上がった楽章

もともとこの第三楽章は、5楽章構成の交響詩だったときには第四楽章でした。後にマーラーが交響詩から交響曲に変える際、当初の「第二楽章 Andante(花の章 Blumine)」が削除されたため繰り上がり、第三楽章になったものです。

交響詩版のタイトル

交響詩第1稿のときは 第四楽章A la pompes funèbres(墓場にて)として作曲されていました(Gustavmahler.comより)。暗いイメージですね。

交響詩第2稿ハンブルグ稿(1893)では第二部第四楽章「Gestrandet! – Des Jägers Leichenbegängnis」というタイトルが付けられていました(Gustavmahler.comより)。
「Gestrandet!」はドイツ語で「座礁、難破、置き去り」というような意味合いで、人生を海に例える場合にも用いられます。これは前の第二楽章の「順風満帆に」というタイトルとかけられているしょう。もちろん第二楽章と同じく実際の海や航海を描写しているわけではありません。人生の中での困難という意味合いだと思われます。
「Des Jägers Leichenbegängnis」は「狩猟者の葬式」です。両方を合わせると「座礁(置き去り)! – 狩猟者の葬式」となります。

第2稿ワイマール稿(1894)では第二部第四楽章「Des Jägers Leichenbegängnis, ein Totenmarsch in Callots Manier」というタイトルでした。
「ein Totenmarsch in Callots Manier」は「カロ風の葬送行進曲」であり、あわせると「狩猟者の葬式、カロ風の葬送行進曲」になります。

以上から、マーラーはこの楽章を特に「葬送」や「狩猟者の葬式」として意識していたと思われます。

「狩猟者の葬式」とは

第2稿のどちらのタイトルにも出てくる「狩猟者の葬式」は「猟師の死体を獣たちが担ぎ、踊りながら墓地に進む」「森の動物たちが狩猟者を弔う」というマーラーの時代オーストリアの子供の間でよく知られていた古いおとぎ話に由来しています。このおとぎ話は以下のような内容です。

ある狩猟者の葬列に関するおとぎ話で、その葬列をなすのは人間ではなくクマ、キツネ、ウサギ、オオカミ、ツルとヤマウズラ、歌う小鳥等の野生動物です。物語はおどけた性格の森の動物の目線で語られます。先頭で弔旗を掲げたウサギが葬列を引き連れ、楽器をかき鳴らすネコやボヘミアの楽士の動物たちが続き、すべての動物たちが歌い、喜びに溢れているようです。

Gustavmahler.comふぃお~ら旅に出るを参照。)

この「狩猟者の葬式」のおとぎ話は作曲家のみならずいろいろな芸術家が題材にしています。オーストリアの画家、モーリッツ・フォン・シュヴィントMoritz von Schwindドイツ語版))は「Die guten Freunde(The good friend, 親友)」という作品の一つとして「Wie die Thiere den Jäger begraben(動物たちが狩猟者を埋葬する方法)」という木版画を作成し、この絵が特にWikipediaで有名のようです。この版画は1850年の作らしく、マーラーの第三楽章の作曲にインスピレーションを与えた可能性が高いと言われています。

一説によればこの版画はワイマールでの演奏会でプログラムに掲載されたと言われています。「自分が殺そうとした動物たちによって葬られる狩人」という皮肉(アイロニー)がテーマになっており、マーラーはこの演奏の雰囲気を「時にはアイロニカルで陽気であるが、時として陰鬱で薄気味悪い」と語ったとされています(Libraria Musicaより)。

「カロ風」とは

ワイマール稿のタイトル「カロ風の葬送行進曲」の部分の「カロ風」ですが、これはベートーヴェンと同時代作曲家・作家・画家等多彩な才能を持ち、マーラーが高く評価していたE.T.A ホフマン(1776年~1822年)の「カロ風幻想小品集(Fantasiestücke in Callots Manier)」という文学作品(曲ではない)に由来していると言われています。

ホフマンは自作小説では不気味なモチーフを用い、現実と幻想とが入り混じる特異な文学世界を作っていました。1814年から1815年にかけて上記の「カロ風幻想小品集」を出し、名声を集めました。この作品集はホフマンが偏愛していた戯画作者ジャック・カロJacques Callot)の名をつけて4巻本で発行され、作品集の序文はジャン・パウル(1763年~1825年)から寄せられています。ジャック・カロは「聖アントワーヌの誘惑」という作品で美女や悪魔に戯画化された欲望と戦いの場面を版画にしており(Libraria Musicaより)ホフマンはそのような幻想的な世界を好んでいたと思われます。また、ホフマンの序文に寄稿したジャン・パウルはまさに「Titan」の作者でした。マーラーは交響曲第1番に当時の自分の「好き」(今風に言えば「推し」でしょうか)を集めていたのがうかがえます。

非常にややこしいですが、画家J. カロの幻想的な絵画→E.T.A ホフマン「カロ風幻想小品集」文学作品→G.マーラーの本楽章ワイマール稿「狩猟者の葬式、カロ風の葬送行進曲」となったわけです。

「E.T.Aホフマン風の葬送行進曲」と言わなかったり、「幻想風な葬送行進曲」と言わないあたりが照れ隠しだったのか、暗喩だったのか、「主人公」が出てくる世界観を壊したくなかったのかはわかりませんが、「カロ風」=「幻想風」または「空想風」である可能性は高めです。なぜなら、ベルリオーズの「幻想交響曲」で使われる器楽法もオマージュされているからです。ホフマンから名前をとり、ベルリオーズから管弦楽を取り入れ、自作も流用するなどやはりオマージュに溢れた楽章だったと言えます。

日本語版Wikipediaでは2018年10月時点で「座礁、カロ風の葬送行進曲」と記載され、重要な「狩猟者の葬式」が抜けています。また、「銅版画家ジャック・カロの…を元に」「カロ風幻想集」となっているあたりに間違いが見受けられます。

そして、このカロ風の葬送行進曲の雰囲気を出すためにかの有名な「フレール・ジャック」の短調版やその他の曲が使われるのです。

フレール・ジャック(Frère Jacques)

交響詩版のタイトル以外に、第三楽章を通して演奏される「フレール・ジャック」の短調版についても掘り下げておこうと思います。

フレール・ジャック(Frère Jacques)とは?

有名なフランスの民謡で、世界各地で様々な歌詞で歌われています。カノン(輪唱)風に歌えることから、子供たちが歌うことも多いようです。

Frèreはフランス語で「兄弟」ですが、ここでの意味は血縁関係ではなく、「同じ宗教の宗派に属する仲間」とのことです(世界の民謡・童謡より)。マンガでよくある「よぉー、兄弟!」と似たような感じでしょうか。
Jacquesはジャック、名前です。フランス語ではジャックですが、元はヘブライ語ヤコブに由来します(Wikipedia)。ジャックが誰かは判明していません。

作曲者不詳ですが、フランス語版Wikipediaではジャン・フィリップ・ラモーの可能性が指摘されています。歌詞の内容は「ジャック修道士、起きて!朝の鐘を鳴らして!」というような感じですが、詳細はWikipediaをご覧ください。

ドイツ語版ブルーダー・ヤーコブ(Bruder Jakob)

マーラーはドイツ語ユーザーでしたので、ドイツ語版も調べてみました。
Frère Jacquesのドイツ語版はBruder Jakobです。 おそらくオーストリアでも歌われていたことでしょう。

BruderはBrotherのドイツ語で、フランス語のFrèreと同じ意味です(Glosbe参照。)。
Jakob(ヤーコブまたはヤーコプ)はJacquesのドイツ語読みです。というよりも、ジャック系の名前はすべてヘブライ語の「ヤコブ」から派生しており、英語のJacob(ジェイコブ)やJames(ジェームズ)、フランス語のJacques(ジャック)やJames(ジャムス)はヤコブ由来です。ドイツではヘブライ語とほぼ変わらずJakob(ヤーコブまたはヤーコプ)で呼ばれています(詳細はWikipedia参照。)。

ドイツ語版「Bruder Jakob」も、フランス語の「Frère Jacques」も、同じ人(ジャック修道士)のことだったわけです。歌詞の意味もほぼ同じでした。

何故短調?

さまざまなサイトを探しても何故マーラーがフレール・ジャックを短調で引用したかは書いておらず、「短調版はマーラーが交響曲で使っている」という程度情報や、または「短調版はマーラーが発明した」なんて書かれているところも多かったです。

ただ、日本語版Wikipedia「オーストリアなど一部の地域で葬送の挽歌を連想させるような短調で歌われていた歴史がある」との記載もありました。
さらにドイツ語版Wikipediaには「マーラーはブルーダー・マルティンという名前をつけて短調版のフレール・ジャックを引用し、第三楽章に葬送行進曲の雰囲気を持ち込んだ。一般的にマーラーが短調版を発明したと思われているがその可能性は低く、実際は19世紀から20世紀初頭にオーストリアで流行していたものだ。」との記載があり、おそらくこちらが事実に近いと思われます。

マーラーはブルーダー・マルティン(Bruder Martin)と言った

私はWikipediaの「オーストリアで19世紀から20世紀初頭に短調版が流行していた」説を支持していますが、マーラー自身は「Bruder Jakob」の短調版を「ブルーダー・マルティン(Bruder Martin)」と呼んでいたようです。自らそう呼んでいたのか、短調版が当時みんなにそう呼ばれていたのかはわかりません。

「Bruder Martin」になると、 意味は「マルティン兄弟(マルティン修道士)」になります。
マルティン版の歌詞は分かりません。実はこの「Bruder Martin」、 ネットで探してみても情報がほとんど出ません。出るのはほぼ「マーラーが交響曲第1番第三楽章でそう呼んだ」という記述のみでした。

ちなみに現代ドイツ語ではMartinを「マーティン」と呼ぶ方が普通ですが、ドイツ語には「舞台発音」という発音の伝統があり、歌曲やオペラで使われています。その舞台発音で読むとMartinは「マルティン」になるため、ここでは「ブルーダー・マルティン」という表記で統一したいと思います。

何故マーラーは「ブルーダー・マルティン」と呼んだのでしょう?

ブルーダー・マルティン(Bruder Martin)の解釈例

英語版Wikipediaの別記事にはフランチェスカ・ドローンとレイモンド・ナップ という方の解釈が載っています。

Frère Jacques in popular culture
“A version of the tune appears in the third movement of the Symphony No. 1 by Gustav Mahler. Mahler presents the melody in a minor key instead of a major key, thus giving the piece the character of a funeral march or dirge; however, the mode change to minor might not have been an invention by Mahler, as is often believed, but rather the way this round was sung in the 19th century and early 20th century in Austria. Francesca Draughon and Raymond Knapp argue that Mahler had changed the key to make Frère Jacques sound more “Jewish” (Mahler converted to Catholicism from Judaism). Draughon and Knapp claim that the tune was originally sung to mock non-Catholics, such as Protestants or Jews. Mahler himself called the tune “Bruder Martin”, and made some allusions to the piece being related to a parody in the programs he wrote for the performances.”
意訳
グスタフ・マーラーの交響曲第1番第三楽章にフレール・ジャックの別バージョンが現れます。マーラーはフレール・ジャックのメロディーを長調から短調に変え、曲に葬送行進曲や葬儀の嘆きの性格を与えました。しかし、この短調への変更はマーラーの発明ではなく、しばしば19世紀~20世紀初頭のオーストリアで歌われていたと思われていますフランチェスカ・ドローンとレイモンド・ナップは「マーラーは転調することでフレール・ジャックの音をよりユダヤっぽくしようとした(後にマーラーはユダヤ教からカトリックに改宗したが)」と論じました。ドローンとナップは、「フレール・ジャックはもともとプロテスタントやユダヤ教徒のようなカトリック教徒以外をあざ笑うために歌われていた」と主張しています。マーラーはこの曲を「ブルーダー・マルティン」と呼んでおり、演奏プログラムにはブルーダー・マルティンがパロディーに関連づいているようにほのめかされています。  

上記のドローンとナップの意見を大まかにまとめると【カトリック教徒が他宗教をあざける「フレール・ジャック」をマーラーが短調の「ブルーダー・マルティン」にしてユダヤっぽくした】という感じでしょうか。

ブルーダー・マルティン(Bruder Martin)の個人的解釈

上記の英語版Wikipediaと日本語Wikipediaのとおり、短調版は当時のオーストリアで歌われてい可能性があります。
私は、やはりなぜマーラーが「ブルーダー・ヤコブ」ではなく「ブルーダー・マルティン」と言ったのかが気になります。もちろんマーラーだけでなく当時のマーラーが住んでいた地域でほぼ全員が「ブルーダー・マルティン」と言っていた可能性も否定できませんが…マーラーが「ブルーダー・マルティン」と呼んだ解釈案を提示してみたいと思います。マーラーに関係しそうなマルティンは誰でしょうか?

一つの可能性として、マルティン(Martin)は15~16世紀のマルティン・ルター(Martin Luthur)のことを表しているのではないでしょうか。ルターはカトリックから分離してプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物です。それと同時に、反ユダヤ主義の人物でもありました。彼にはユダヤ人と彼らの嘘についてという論文があるほどで、後年のナチスの反ユダヤ政策に通じる提案も行っています。

マルティン・ルター(Wikipediaより)

完全に推測の域を出ませんが、作曲当時のマーラーは自分がユダヤ人であることに誇り…とは言わないまでもアイデンティティを持っていたと思います。それと同時に、ユダヤ人であることで不利益も被っていました。そこで、カトリック向けの「フレール・ジャック」を短調にして、こんな状況を作り出したマルティン・ルターをからかうように「Bruder Martin」とし葬送行進曲として「ルターを墓場に送る」という皮肉(憂さ晴らし)を込めたのかもしれません。

マーラーは曲にダブル以上のミーニングを持たせていましたし、交響曲第1番の第一楽章も多元的な解釈が可能でしたから、この第三楽章も「主人公の葬送」の解釈内に「マーラー自身」を見出して、第一楽章で恋をして、第二楽章で順風満帆な人生を送るが、第三楽章で恋に破れ仕事も躓き(ユダヤ人であることから等)…というマーラーのストーリーを見てもいいと思います。

ただ、上記の解釈は完全な妄想の域をでないものですので、あまり真に受けないでいただければと思います。

また、当時短調版で歌われていたというのは「私たちが遊びで替え歌をうたう」程度の話だったのではないか?とも想像しています。私たちが「かえるの歌」を遊びで短調で歌うように。もし替え歌を交響曲に入れたら、初演が大批判であったように真面目な音楽家は怒り、真面目な聴衆は困惑したり冷ややかになったりすると思います。

実は、フレール・ジャックをJacque系の名前ではなく「Bruder Martin」のようにMartin系の名前で歌っている国があります。それはクロアチア(Bratec Martin)、スペイン(Fray “Santiago” または “Martinillo”)、イタリア(Fra’ Martino)です。しかしその3カ国とオーストリア(ユダヤ系)に共通点はあるのでしょうか…軽く調べてみましたが謎でした。この謎が解明されればまた別の解釈ができるかもしれません。

ナターリエ・バウアー=レヒナーのブルーダー・マルティンに関する記録

何故一般的に「マーラーが短調版を開発した」と思われているのかの答えは、友人ナターリエ・バウアー=レヒナーの「グスタフ・マーラーの思い出」に記録があるからです。

ナターリエの記録には
「マーラーは子供のころから、ブルーダー・マルティンにいつも歌われている明るい調ではなく深い悲劇をたたえた旋律に感じられており、第三楽章で用いた内容を既に聞き取っていた。」
「マーラーは作曲の際に先にこの楽章の第二部を思いついており、その前に置かれる開始部を考えていたときに、必要としていた保続音(和声進行とは全く無縁に同一音を保ち続けること。一般的に主音か属音。)を ブルーダー・マルティンのカノンから感じ取ったので、急に思い立ってこの旋律を使うことにした、とのことだ。」と書かれています。
おそらくこの記録から「マーラーが短調版を開発した」と言われる要因になっているのでしょう。しかしちゃんと読むと「マーラーが開発した」とは書いていません。

なお、上記の保続音を云々については、マーラーは保続音を楽章通してなるべく使うようにしており、「保続音を出せる民衆的な楽器(ハーディ・ガーディ等)の雰囲気を模して楽曲自体に通俗性を持たせる」ような市販スコアにある解釈が妥当かと思います。

二つの青い目

「フレール・ジャック」以外にも第三楽章に取り入れられている曲があります。それが自作「さすらう職人の歌」より第4曲「二つの青い目(Die zwei blauen Augen)」です。
第一楽章でも「さすらう職人の歌」から主題が取られていましたが、こちらでは中間部に挿入されています。歌詞の詳細はリンク先をご覧ください。

この「二つの青い目」は前半・中間・後半の大きく3部に分かれており、 曲の流れは嘆き→旅立ち→安らぎになっています。

前半の歌詞は「恋人の青い目はなぜ私を見つめたのだ?いま私にあるのは苦しみと嘆きだ」という暗い嘆きのもので、曲もE-mollで始まります。↓


中盤の歌詞は「私は夜に旅立つ!さらばだ!」といった内容で、ハープやティンパニ、チェロ・バスによってマーラーの三楽章冒頭のようなC-Gの四度下降オスティナートが使われており、歩き出す曲調になっています。調はC-durとC-mollが入り混じったような、どちらともいえない感じです。↓


後半は「菩提樹の陰で安らかに眠ることができた。花びらが私に降り注ぎ、人生はどうなるかわからないが全てが素晴らしくなった!」という安らぎの内容で、調はF-durになっています。後半の終盤には中盤(旅立ち)や前半(嘆き)の音型が現れており、必ずしも希望に満ち溢れる内容ではありません。 曲全体をみると多少省略はあるものの対称になっています。↓


そして、交響曲の第三楽章の中間部にはこの後半(安らぎ)部分をほぼ丸々引用…というより移植しています。原曲F-durがG-durに変わっていること以外はほぼそのままです。

ちなみに、「さすらう職人の歌」のオーケストレーション自体はこの交響曲の後だった(グスタフ・マーラーの思い出に注釈で記載がありました)ようなので、厳密にどちらを先に移植したのかは不明です。ただ、曲や歌詞は交響曲第一番の作曲以前からありますので、いずれにせよマーラーはこの中間部に「二つの青い目」の後半(安らぎ)部分を想定したことは間違いないでしょう。

ユダヤ教の音楽

これはまだ確証が得られていませんが、おそらくマーラーはユダヤ教の音楽(とりわけユダヤ教の安息日Shabbatの礼拝で歌われる歌のようなもの)を取り入れていたのでは?と推測しています。

マーラーは1897年(36歳)でユダヤ教からカトリックに改宗しており(Wikipedia)、そちらの方が知られているのでこの可能性に批判的な方もおられると思います。交響曲第一番としての初演も1896年と改宗前年になっています(もっとも交響詩としての作曲自体は1888年(27歳)頃ですが)。特に敬虔なユダヤ教徒だったという記述もみあたりませんので、あまり調べられていないことかと思います。

一方、新交響楽団のページには「マーラーの家族は、カリシュトやイーグラウでのユダヤ人コミュニティとのつながりを保ち続けていた。マーラー自身も、イーグラウのシナゴーグ(ユダヤ教会)に通い、13歳のときにはバル・ミツヴァ(ユダヤ教の成人の祝い、キリスト教でいえば堅信礼にあたるか)を受けている。」アマチュアオーケストラ新交響楽団:マーラー:交響曲第2番 ハ短調「復活」より)と書かれており、幼少期からユダヤ教会や礼拝に行っていたと思われます。マーラーは幼少期に聴いたボヘミア民謡や軍隊ラッパの音、カッコウの音などを自作によく使っていましたので、ユダヤ教的音楽(あるいは音節)を取り入れていた可能性も十分にあると考えています。

さて、ユダヤ教では礼拝時にピーユートというヘブライ語の詩文が使用され、リズムがつけられて歌のようになっているものがあります。例えば以下の動画。

上の動画は礼拝?で歌われているピーユートです(歌われている歌がどのピーユートかは不明ですが、おそらくYedid Nefesh。)。ずっと見ていると音楽が入ります。このピーユートは同じ音型が3回続くのが特徴的です(その他Yedid Nefeshの音楽)。

器楽では以下のように演奏されたりします(一曲目がYedid Nefesh。 )。


個人的に、交響曲の以下の部分がユダヤ教由来ではないかと思うのです。音階が後述するクレズマースケールであることも理由です。ただし、ただ似ているという感覚のみの推測であり、もし別の確定的な情報を見つけたら修正すると思います。

ちなみに、第三楽章は葬送の雰囲気を持っているため、ここは葬送の歌かも?とも思いましたが特にユダヤ教の葬儀で歌を歌うことはあまりないそうです(禁止というわけではないようですが。chabad.orgより)。一方、「ボヘミアの田舎では慣習的に葬式に吹奏楽が使われ、終わった後に楽しげなポルカや行進曲を響かせながら近くの飲み屋に向かって行くのが常だった」聖光学院管弦楽団「(170) マーラーの交響曲と実用音楽」 )とありますので、葬式(ピーユート)→飲み屋への移動のパターンはあり得るとも思います。

クレズマー音楽

マーラーはこの曲の中に自分のルーツであるユダヤ人の音楽「クレズマー音楽」
英語) を取り入れています。 クレズマー音楽として最も有名なのは「ドナドナ」とも言われますが、基本的にはアップ・ビート(テンポの速い)音楽であることが多いです。クレズマー音楽は現代でもクレズマーバンドが演奏しています(現代のはこんな雰囲気です↓)。

楽器は基本的にクラリネットやヴァイオリンが主体であり、ベースラインとしてコントラバス・ギターの弦楽器やドラム等の打楽器、アコーディオン等の蛇腹楽器が用いられます。音楽的にはまさにフォークミュージックが多く、ジプシー音楽等々との差がよくわかりません。

クレズマー音楽の中にはハンガリーのチャルダッシュと似たように「遅い(あるいは悲嘆)部分」と「速い(あるいはリズミカルな)部分」で出来ており時たまそれが交互に繰り返されているものもありました。遅い部分はたいていクラリネットかヴァイオリンの物悲し気かつソリスティックな部分になっており、速い部分はドラム等パーカッションやベースの上でクラリネットとヴァイオリンがユニゾンしていることが多いと思いました。↓

このクレズマー音楽はパロディーとして用いられ、前述の 「ボヘミアの田舎では慣習的に葬式に吹奏楽が使われ、終わった後に楽しげなポルカや行進曲を響かせながら近くの飲み屋に向かって行くのが常だった」 の「終わった後に楽しげなポルカや行進曲を響かせながら近くの飲み屋に向かって行く」部分に該当すると考えています。

クレズマースケール(クレズマー音階)

クレズマー音楽は主としてクレズマースケール(クレズマー音階,ユダヤの音階)またはジプシースケール(ジプシー音階)と呼ばれるものが使用されているようです。英語版Wikipediaによるとクレズマースケール(Phrygian dominant scaleにクレズマースケールの記載あり)もジプシースケールもフリジアン・ドミナントになるそうですが、日本語版Wikipediaではフリジアン・ドミナントはスペイン・ジプシースケールとなっており違いがあります。

本楽章でたまに用いられる音階はミュジオリー音楽理論で紹介されているジプシー音階が最も近いと思われます。Wikipedia(クレズマー)にもジプシー音楽とはっきり区分けすることは不可能と書いてあります。このため、 本記事ではクレズマースケール=ジプシースケールとして扱っておりますのでご了承ください。

また、フリジアン・ドミナントに長調短調の別はありますが、上記リンク先のジプシースケールには長短の別が書いてありません。本記事ではクレズマーのA-mollやD-mollという記載にしていますが、その別もない可能性があります。今後の新たな知見を得次第柔軟に修正してしまいますので、 ご注意ください。

さらに、マーラーは単純にクレズマースケールを用いるのではなく、おそらく旋律的クレズマースケールとか和声的クレズマースケールというような感じで部分部分で半音の上げ下げを行っていたり通常の旋律的短音階等と混ぜて使っているように思われる部分もあります。これらをはっきりさせて記事を書きたいところですが、私では特に和声学や調性に関して力不足ですので、そのあたりはざっくりとご紹介しておりますので間違いがあるかもしれません。より詳細な内容は高度な知識を持った方にお聞きいただけますと幸いです。

マーラーとEsクラリネット

この楽章に大変特徴的なのがEsクラリネットが使用されている点です。マーラー以前にはあまり交響曲で使用されず、ベルリオーズの幻想交響曲で用いられていたのが有名なくらいです。なお、他の調の小型クラリネットはベートーヴェンやメンデルスゾーンで用いられたことはあるようです (Wikipedia) 。

バウアー=レヒナーの記録では、オーケストラの技法について「マーラーは、オーケストラにおける新参の楽器の利用に関して、軍楽隊からいくつか楽器を拝借し特にそれまで低俗な響きを出すとされてきたEsクラリネットを採用した。」と記録しており、マーラーも 「私は子供のころからこの楽器に心酔していた。」と言ったようです(グスタフ・マーラーの思い出)。

同様に、マーラーは交響曲第3番の話(軍楽隊の楽器として大好きだったフリューゲル・ホルンを使いたいが演奏会時に楽器が手に入らない可能性を考慮すると大きな役割を与える決心がつかないという話)の中でこうも言ったようです。「私はこの交響曲の中で2本のEsクラリネットを平気で使っているが、ベルリオーズはそもそも低俗な効果を狙うためだけに用いることに慎重で不安げだったではないですか。」 (グスタフ・マーラーの思い出) 。
おそらくマーラーはベルリオーズ著の「管弦楽法(仏語Wikipedia)」を読み込み、ベルリオーズの幻想交響曲におけるEsクラリネットの使用方法についても完全に学んでいたことでしょう。

この交響曲第一番では上記のクレズマー楽隊の部分でEsクラリネットが用いられていますが、初めての交響曲にこのクラリネットを使用する程思い入れがあり、同時にベルリオーズを超えようという挑戦の気持ちがあったかもしれません。

◆第三楽章の解釈

事前知識のインプットはこのくらいにして、解釈について記載していきたいと思います。第一楽章と同様、第三楽章もさまざまな次元を内包しています(というよりどうとでも解釈できるほどの情報量があります)。

様々な解釈が可能

<物語の主人公的解釈>

マーラーはジャン・パウルの「Titan」に倣うように、小説の「主人公」のストーリーを表現しようとしていました。その「主人公」のストーリー的に解すると以下のようになります。

曲はppから始まり、「ブルーダー・マルティン」がカノン風に演奏され、次第に楽器が増えていきます。葬列が増えていき、お墓に向かうようです。お墓にいれられるのは「主人公」でしょうか?それとも誰か別の人が運ばれていくのを「主人公」が見ているのでしょうか。後述するマーラー自身の解説では「葬送の行列が主人公のそばを通り…」とあるので、「主人公」は誰かの葬送に立会うのかもしれません。誰の葬送でしょうか。「主人公」の恋人かもしれません。

「主人公」は一瞬恋人の青い眼を思い出しますが、ベルリオーズの「幻想交響曲」第4楽章「好きな人を一瞬思い出すもギロチンで首を落とされる(そして第五楽章が地獄の光景)」部分と似たように、こちらでも思い出した後は現実に引き戻され、やがて地獄に落ちる、または地獄に落ちるような気持ちになることとなります(「二つの青い目」の歌詞から推定)。そして第四楽章の地獄のような冒頭が始まるのです。
第二楽章の恋人との順風満帆から、第四楽章の地獄のような始まりの中間をなす楽章といえるでしょう。

<マーラーの自叙伝的解釈>

この交響曲の「主人公」をマーラー自身としてとらえることもできますので(いわゆる自己投影)、それに則すとこの楽章はハンブルク稿の「座礁・置き去り」の意味合いが強いでしょう。何から置き去りにされたかといえば、第一楽章で恋を歌い、第二楽章で恋人との順風満帆な生活を歌ってきましたので、「恋」または「恋人」に置き去りにされたのです。

第一楽章で「さすらう職人の歌」の曲想の元になったのは「ヨハンナ・リヒターへの恋(とその破局)」という説明をしていましたが、第三楽章中間部で想い出の様に「さすらう職人の歌」 第4曲が現れます。つまり、葬送により破局の絶望がイメージされ、楽しかった思い出のようにヨハンナ・リヒターの「二つの青い目」が現れ、再度破局の絶望(現実)が演奏されて第四楽章のどん底に向かっていくというマーラーの恋の一連の流れを汲むことができるのです。

また、もしかしたら「Bruder Martin」の部分で提示したような、ユダヤ人であることでうまくいかない仕事の腹いせのような気分も含まれているかもしれません。この場合、「ブルーダー・マルティン」をマルティン・ルター(反ユダヤ)とし、反ユダヤを進めた牧師を葬送しつつクレズマー楽隊(ユダヤ楽隊)が面白おかしく演奏するという意味も含んでいる可能性もあります。上手くいかない状況を作り出した嫌味を含ませていたと解釈しても無理はないでしょう。ただし、基本的にはおまけ要素だと思います。ちょっとした人生の嫌味を含ませてみた、程度ではないでしょうか。第一楽章や第二楽章ではユダヤ人要素が多いわけではありませんから、ユダヤ云々がテーマであるわけではないでしょう。

<自然をテーマとした解釈>

第一楽章で鳥や植物が春を歌っており、随所に鳥の鳴き声モチーフが見受けられていました。第二楽章では、田舎の風景が描写されていました。そしてこの第三楽章で、自然の生き物たちが反旗を翻したかのようにハンターを埋葬地に連れていきます。第四楽章では地獄に落とされたハンターという視点で始まることになります。

<総合的に>

この楽章も第一楽章と同様にどれかの解釈だけではなく、どの解釈もできるようダブルミーニング・トリプルミーニング(それ以上かもしれない)を意識して作曲されているのではないでしょうか。マーラーから見たらどんな解釈でもできるように様々な要素を取り入れただけかもしれません。どの解釈をするかは指揮者と聞き手に委ねられると思います。

マーラーが交響曲第一番になるまで何度も改訂し何度も演奏していた理由はいろんな世界を内包するほど「自分のこだわりと意味が詰まった思い入れのある交響曲だから」ではないかと想像してしまいます。

マーラー自身の解説

マーラーはこの楽曲についてバウアー=レヒナーへ次のとおり説明していました(Gustavmahler.comより)。

Bauer-Lechner in November 1900: “On the surface one might imagine this scenario: A funeral procession passes by our hero, and the misery, the whole distress of the world, with its cutting contrasts and horrible irony, grasps him. The funeral march of “Brother Martin” one has to imagine as being played in a dull manner by a band of very bad musicians, as they usually follow such funeral processions. The roughness, gaiety, and banality of this world then appears in the sounds of some interfering Bohemian musicians, heard at the same time as the terribly painful lamentation of the hero. It has a shocking effect in its sharp irony and inconsiderate polyphony, especially when we see the procession returning from the funeral (after the beautiful middle section), and the funeral band starts to play the usual happy tune (which pierces here to the bone).”
意訳 1900年11月、バウアー=レヒナーには次のように伝えています。「葬送の行列が主人公のそばを通り、この世の苦悩と悲惨が、強烈なコントラストと酷いアイロニーで彼を掴んで離さない。「ブルーダー・マルティン」の葬送行進曲は、すごくダメな音楽バンドが物憂げに演奏しているのを想像されなければならない。葬送の行列で彼らがいつもやっているようにね。それから、恐ろしいほどにつらい主人公の悲嘆と同時に、この世の無作法・お祭り騒ぎ・陳腐さが、ボヘミアの楽隊が割って入るサウンドであらわれるんだ。特に、葬送行列が埋葬から帰ってくるとき…つまり美しい中間部の後に現れる鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニーには聴く者を震撼させる。そして、葬送バンドは(ここで骨の髄まで染みとおるような)いつもの陽気な曲を演奏し始める。」

英語は不得意なので、よりよい訳が分かる方は是非ご教示ください。なお、ドイツ語の原文だともう少し違うかもしれません。
さらに1901年、マーラーはベルナルド・シュストに手紙で次のように書いています(同Gustavmahler.com)。

In 1901 Mahler wrote in a letter to Bernhard Schuster: “the third movement… is heart-rending, tragic irony and is to be understood as exposition and preparation for the sudden outburst in the final movement of despair of a deeply wounded and broken heart.”
「第三楽章は…胸が張り裂けるような悲劇的なアイロニーで、最終楽章(冒頭)の深く傷ついた絶望と壊れた心の突然の爆発への提示部や準備として理解されるべきです。」

さらに、バウアー=レヒナーにはこうも言っていたようです。

マーラーの言葉「ここ(第三楽章)で主人公はスープの中に髪の毛を見つけ、食事全体が台無しになってしまう。」
ここでいう食事全体は「主人公」の今迄の人生全体ということでしょう。喜びに溢れる第一楽章と順風満帆な第二楽章の否定(というよりも起承転結でいう転)であることがわかります。

マーラーのいう「アイロニー(Irony)」は「皮肉」なのか?

ところで、マーラーはしきりにアイロニーアイロニー言っておりますし、日本語の解説でもアイロニーを皮肉と訳しているのをよく目にしますが、何の皮肉なのでしょうか?何かを皮肉っているのでしょうか?もし「皮肉」の解釈を間違えていると大変なことになるので、一応調べてみました。

実はこのアイロニーという言葉について気を付けなければいけないのは、原文や英語でいうIrony(アイロニー)が、日本語的な「嫌味を言う感じの皮肉」という意味ではないことです。

ここでいう皮肉(アイロニー)は「普通なら避けられたはずの状況が、よりによって最も望ましくない事態になってしまったというような状況、笑えない悲劇を表す。」ということです(引用:あれもこれもしたい日記)。「予想されることと実際に起こることとの間にある不適合」のことを指します(引用:Weblio)特に文学や劇の悲劇的な展開があたるといえるでしょう。
マーラーは文学作品を好んでいましたし、交響曲第一番の下地というべき作品が文学小説「Titan」であるため、ここでいう皮肉は「望んでいなかったのにそうなってしまった不本意な状況」を指すのではないでしょうか。

ドイツ語辞書でも「Ironie」はやはり皮肉ですが、嫌味・風刺のほか反語という意味もあります。そちらの意味をとるとここでいう皮肉とは単に明るい旋律や対旋律のことも指すかもしれません。
マーラー自身の説明にあった「強烈な対比(コントラスト)と酷いアイロニー」「鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニー」という記載は、どちらかといえば音楽の内容(旋律・リズム・形式・ハーモニー)を表しているような気もします。

英英辞書を引いてみても、tragic irony(悲劇的な皮肉)とは「悲劇(元はギリシャ悲劇)におけるドラマ的な皮肉のことで、キャラクターの性格が悲劇的ではないのに、言動が悲劇または死の結末に向かっていってしまう」こととされており、「何かの風刺」や「何かを皮肉する」ということではないようです。その場合の皮肉は「Sarcastic」「Sarcasm」「cynical」でしょう。

考えられうる「皮肉な状況」

ではまずアイロニーを「望んでいなかったのにそうなってしまった不本意な状況 」、つまり「皮肉な状況」という訳をあてて考えてみたいと思います。

「主人公」のストーリーで考えるならば、第一楽章で恋をして第二楽章で幸せな状況があったのに、第三楽章で「別れ」(おそらく死別)により不本意などん底に向かっていくという状況が「皮肉な状況」を表すと言えます。

「自然」をテーマにしたと考えるなら、第一楽章で春の自然の喜び、第二楽章で夏のような喜びがあったのに、第三楽章で動物たち(自然)に墓地に埋葬されるハンターという状況が皮肉的である、ということでしょう。そう解釈すると、マーラー自身の説明にも一応納得がいきます。

「マーラーの自叙伝」的に言えば、第一楽章で恋をして第二楽章で愛をうたうように、郵便局長の娘に恋をしマリオン・ウェーバーにも恋をしたのに、どちらにも敗れ、不本意などん底に向かっていくマーラー本人の当時の状況が近いのでしょう。過去の自分の歌曲を想い出に使い、逆にその当時お客さんが聴いても一発でわかるようなその時代に「生きている歌」を使っているあたりも、マーラーの作曲当時の状況を表していると考えられるかもしれません。

音楽的アイロニーの可能性

前述のとおり、マーラーのいうIronyは「想定外の皮肉な状況」のほかに単に音楽的アイロニー(Musical Irony)の可能性もあります。「強烈な対比(コントラスト)と酷いアイロニー」「鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニー」という言葉はストーリーを表すよりも音楽の内容を表しているからです。ストーリーの解説に「ポリフォニー」は使わないからです。

音楽的アイロニーは例えば「幸せな曲調・歌詞なのに和音が解決しない」とか、「暗い歌詞なのに曲調が明るい」とかのことだと言われています。厳密な音楽用語ではないので正確な定義はわかりません。

一応上記の定義と考えるならば、この楽章においては「葬送におけるおどけた旋律(つまり「ブルーダー・マルティン」に出てくる対旋律)」、「悲劇的な音楽に突然現れる明るいクレズマーバンド」や「美しい中間部が綺麗な和音で終わらない」あたりのことかと思われます。なお、中間部のもとになった「二つの青い目」は歌の内容はだんだん希望を持っていくのに、曲の最後は明るく解決する和音で終わらないのでまさに「アイロニー」だと言えるでしょう。

例えば吹奏楽で有名なバリー・マニロウの「コパカバーナ」はノリノリのラテンリズムですが、歌詞はかなり悲劇的なものなので、そういったものが音楽的アイロニーと言えるのではないでしょうか。

対旋律そのものを指す可能性

私はこの可能性が最も高いと思っていますが、アイロニーは「ブルーダー・マルティンの対旋律」そのものを指すかもしれません。

マーラーは「強烈な対比(コントラスト)と酷いアイロニー」「鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニー」という説明をしていますが、コントラストは明るい・暗いを繰り返す楽曲の流れや旋律と全く逆のアーティキュレーションの対旋律であると考えられますし、ポリフォニーは多声音楽つまり声部が複数ある旋律の流れを指しています。カノン(ここでは輪唱)もポリフォニーの一種ですので、「ブルーダー・マルティン」のカノンのことも指しているかもしれません(ポリフォニーやカノン・フーガについては音楽の落書帳 ホルン吹きTadasの独り言が勉強になります)。

その言葉と同列の文章で書かれており、かつ「酷い」「鋭い」等「皮肉な状況」を修飾するにはいささか似合わない言葉が用いられているため、アイロニーそのものは何か音楽内の要素を指しているのではないか、と推測されます。

「酷い」「鋭い」が最も似合う音楽内の要素は「ブルーダー・マルティンの対旋律」以外に考えられないと思います。そもそも「鋭い」旋律はスタッカートが用いられる旋律と考えられますが、「ブルーダー・マルティンの対旋律」以外はスタッカートが使われていないからです(以下各種メロディーの抽出図。上からブルーダー・マルティン、同対旋律、2つのクレズマースケール旋律、2つの終結部の主題。推移部や中間部は除く)。

また、マーラーの「葬送の行列が主人公のそばを通り、この世の苦悩と悲惨が、強烈なコントラストと酷いアイロニーで彼を掴んで離さない。(中略)特に、葬送行列が埋葬から帰ってくるとき…つまり美しい中間部の後に現れる鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニーには聴く者を震撼させる。そして、葬送バンドは(ここで骨の髄まで染みとおるような)いつもの陽気な曲を演奏し始める。」
という説明の順番で考えると、「アイロニー」が出るのは「葬列が主人公のそばを通るとき(=ブルーダー・マルティンと同時)」かつ「美しい中間部の後の葬列が返ってくるとき(=二つの青い目のあとのブルーダー・マルティンと同時)」であって、そのどちらにも表れるのは「ブルーダー・マルティンの対旋律」しかないためです。

つまり、ブルーダー・マルティンの対旋律が「アイロニーのテーマ」になっているいう解釈ができるのです。

その他参考

Chicago Symphony Orchestra / PROGRAM NOTES
The Teeming Brain / The world’s misery, distress, and irony: Mahler’s Symphony No. 1, Movement 3

◆楽曲解説

これ以降は楽曲の分析に入ります。

形式分析

他の作曲家でもよくあることですが、マーラーも必ずしも既存の形式にがっちり当てはめているわけではありませんので、この楽章もいくつかの形式から分析できます。一般的に「複合三部形式」と言われますが、個人的には当てはまりにくい(中間部が分けにくい)と思っており、代わりに「ロンドソナタ形式」 あるいは「小ロンド形式」 の方が近いと考えております。ただし、それでもどちらも完全に当てはまるわけではないので確定できません。一応すべての形式を以下から考えてみたいと思います。

<複合三部形式>で見る場合

第三楽章は市販スコアやネット情報では通常複合三部形式と言われています。

一般的な複合三部形式

複合三部形式とは三部形式の中に二部形式や三部形式をとる形式です。一般的な三部形式の複合三部形式は下記の形をとります。中間部はTrioと言われます。序奏やコーダを持つ大規模なものもあります。

一般的に主部同士は同じ調、中間部は違う調になります。 また、AとB、CとDは古典派的な転調であれば関係調のことが多いでしょう。もしD-mollの複合三部形式だったら、古典派では多分こんな感じになる一例を紹介します(主部内ではD-mollのドミナント(属調)A-mollに転調、中間部ではD-mollの同主調F-dur及びその属調C-dur等)。もちろん転調には属調のほか、下属調・属平行調・下属平行調等もあるので以下の例でいなければならないということではありません。

第三楽章の分析

では三楽章を複合三部形式として分析してみました。

第一楽章同様古典派そのままとはいきませんし、これで合っているかも正直自信がありません。後半の主部が長すぎるように見えますが、練習番号だけを見ると実は前半とあまり長さはかわりません。

マーラーの練習番号どおり中間部を三部に分けてしまっていますが、基本的に「二つの青い目」の後半部そのままですので中間部が三部形式というのは少し無理があります。また、後半の主部にEsやBbなど一見関係ない調が挿入されているのも戸惑います。14あたりから、それまでなかった新しいテーマも出てきていますので、ひとまとめに後半主部としていいものかも疑問です。

ただ、市販のスコアに「メヌエットの中間部によく用いられるトリオは全員の合奏から少人数で演奏する息抜きのような気楽な部分で、民謡風の旋律も好まれる。」とあるのですが、この中間部は確かに前後の合奏の合間における歌謡部分でありますので、複合三部形式かどうかはともかくこの中間部にメヌエットにおけるトリオのような役割を持たせた可能性はあるでしょう。

もし複合三部形式であると考えるならば、練習番号13~16(Es-mollとBb-durの箇所)が複合三部形式に挿入されていると見た方がいいかもしれません。

中間部から練習番号13に入る転調自体は決して無理ではありません。複合三部形式で見ると形式上違和感がありますが、例えばソナタ形式展開部で行われるような転調として見るとそこまで変なものでもない、と考えられます。

ちなみに、この楽章を①葬送マーチ②ユダヤ俗謡③葬送マーチ④パストラル⑤葬送マーチのロンド調だと考える方もいるようです(クラバートの樹より)。ロンドと考えるならば、①葬送マーチと②ユダヤ俗謡の繰り返しに④パストラル(中間部)が挿入されたとみる方がよいかもしれません。

<ロンドソナタ形式>で見た場合

上記のロンドと、ソナタ形式的展開部で行われる転調の考え方をしたとき、後半主部の転調を展開部としてみなせるかもしれません。中間部や転調部を展開部と見なしたロンドソナタ形式で考えてみたいと思います。ロンドソナタ形式で見た場合は、一応中間部(展開部)や再現部として説明できる部分が複合三部形式よりも細かく分類できると思います。

一般的なロンドソナタ形式

ロンドソナタ形式は、度々異なる旋律を挟みながら同じ旋律(ロンド主題)を繰り返すロンド形式のうち、複合三部形式のような大ロンド形式にソナタ形式のような調性様式を合わせたものです。一般的には以下の図のようになります(Wikipediaより)。

ここで第一主部や再現主部、展開部という呼称がされていますが、皆がそう呼んでいるわけではなく便宜的なもののようです。おそらく主部・展開部・再現部とか、主部・中間部・再現主部とかでもいいと思われます。

第三楽章の分析

三楽章をロンドソナタ形式であるとみて分析してみると、以下のようになります。

細かくて恐縮ですが、大きく複合三部形式と違うのがEs-moll転調した部分を再現部ではなく展開部と見なせることや、ほぼ練習番号どおりに役割をみいだせることです。再現部では複合三部形式は大まかにしか分析できませんが、ロンドソナタ形式だとより詳細に分析できると思います。

ただし、ここで展開部としている部分(13-16)は本当に単なる転調であり、ソナタ形式の展開部の様に主題の要素を発展させているわけではありません。このため、展開部と見なすのにはやはり少々無理もあります。

一方、14あたりで表れるTpによる新しいフレーズ展開部主題と考えると再現主部の16で再度現れるのにそこまで違和感がありません。第一楽章でも展開部で第一主題が現れる等の搦め手がありましたので、意外と無理がない気もします。

ただ、このように複合三部形式でも、ロンドソナタ形式でも一長一短があります。あまり展開していない展開部を持つロンドソナタ形式と考えるくらいなら、A-B-A-C-Aという動きをする小ロンド形式でもよいのではないか?と思いました。

小ロンド形式で見た場合、複雑さの記述をみると若干ベートーヴェンの交響曲第3番「Sinfonia Eroica」の第二楽章が近いのかな、と思います。そちらは小ロンド形式とされていますが、三部形式あるいはソナタ形式に類するところも見られる複雑な構造であると書かれており、マーラーの本楽章も似たような複雑さを持っていると思います。
ところでマーラーのいう「主人公」はHeroですが、その言葉には「英雄、英雄的」な意味もあります。 ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄的な」交響曲で、さらに第二楽章は「葬送行進曲」 でもあります。もしかしたら共通点があるのかも(マーラーが参考にした可能性もあるかも)しれません。ベートーヴェンと同様小ロンド形式でもよいのかもしれません。

<小ロンド形式>で見た場合(本記事ではこちらを採用)

小ロンド形式は一般的にA-B-A-C-Aというロンド主題に2つの要素が挟まれるものになっています。

本第三楽章はそんなに簡単な構造ではない!とお叱りを受けそうですが、実は、メタ的あるいは俯瞰的にみると小ロンド形式A-B-A’-C-Aで、真ん中のA’が13の転調部分にあたり(転調なので’を付けている)ます。Aとは何度も繰り返し出てくる主題部分で、ロンド主題部としてまとめました。 それは第一主題と第二主題にわかれ、さらに第一主題がブルーダ・マルティンと対旋律、第二主題が主人公の悲嘆とクレズマーバンドの2つに分かれると考えられます。主題が複雑なのは第一楽章からでしたので特に問題ありません。 Bが中間部、Cが16あたりの合奏部分になります。

それか、もともと三部形式+コーダのA-B-A-コーダだったものが、最後のAの中にコーダ(コデッタ)が入り込んでA-B-A’-C(コーダ)-Aになったのではないか、と考えております。こちらの考えを採用すると、16のトランペット主題が終結主題となりA’で先に終結主題が現れたと考えても特に不思議ではありません。以上を踏まえると以下の図のように分析できます。

私はこの終結部(コーダかコデッタ)が三部形式の内側に入り込んで小ロンド形式になった形が自分の中でしっくりきておりますので、この説に則して記事を進めていきたいと思います。

以下より詳細な分析に入ります。

ロンド主題部Ⓐ(1~10)

ここのロンド主題部は推移部を除けば単純な三部形式A-B-Aの構造になっており、Aはブルーダー・マルティンとその対旋律、Bはユダヤ音楽・クレズマー音楽を模したものに分かれています。

第三楽章も交響曲第一番を通じてのテーマである四度下降で始まります。第一楽章がD-dur(冒頭はD-moll)におけるA-Eの四度下降、第二楽章もA-durにおけるA-Eの四度で始まり、この第三楽章はTimp.でD-mollにおけるD-Aの四度下行から始まります。
聞き手にとってD-mollと判明するのはFに♯がついていない部分が出てからですので、Cbの独奏までは確定していません。もっとも楽譜を見ればフラット1つなので一発ですが。

第二楽章ではオスティナート・リズム(ベートーヴェン交響曲第7番のように)が中心でしたが、Gustavmahler.comでは冒頭Timp.によって繰り返されるこのD-Aすらもオスティナート・リズムと捉えているようです。実際ずっとD-Aの四分音符を繰り返しますからオスティナートなのかもしれません。

【第一主題部A&A’】

<第一主題>Bruder Martin(A) の提示(1-3~2)

ここから弱音器つきCb独奏による短調版「フレール・ジャック(Frère Jacques)」…マーラーによると「ブルーダー・マルティン」が始まります。なお、一般的にCb独奏で演奏されていますが、1992年新校訂版ではCbセクションによるユニゾンになっているようです(新交響楽団ホームページより)。

この「ブルーダー・マルティン」ですが、マーラーのイメージ…つまり「主人公」のストーリーとしては「すごくダメな音楽バンドが葬送行列でいつもやっているように物憂げに演奏している」シーンです。

交響曲全体を自然に結び付ける解釈では「動物達に墓場に連れていかれる死した狩猟者」の葬送行進曲でいいと思います。

<第一主題>Bruder Martin(A)のカノンの提示(2~3)

これ以降カノンになっていますが、上記の1~2も含めてカノンは大きく3グループに分かれます。カノンを開始するタイミングに少しズレがあるためです。

第1グループ(練習番号1):テーマの提示(独奏Cb)
第2グループ(練習番号2):カノンの提示(Fgから始まり、Vcが追走)
第3グループ(練習番号2-7以降):2小節カノンの開始(Tub以降2小節ごとに始まる。Tub→木管低音ユニゾン→低弦ユニゾン→Hr1番→Flオクターブ→木管中低音オクターブ→中低弦オクターブ→Hp・Hrオクターブ)

つまり、冒頭Cbで「ブルーダー・マルティンがテーマですよ』といい、FgとVcの追走で「ここはカノンになるんですよ」といい、Tub以降2小節単位でカノンを始めていくというとても説明口調な部分なのです。分かりやすいですね(マーラー本人的には)。

マーラーはナターリエ・バウアー=レヒナーにこういったといわれています(意訳)。
「このカノンにおいて、次々出てくるカノンのテーマは常に驚くべき音色ではっきりしていて、それ自体に注意を引く。(in the round, the new entrance always is distinct, in a surprising timbre, drawing attention to itself.)」(gustavmahler.comより。)

その言葉通り、この冒頭カノン部においては一つとして同じ音色で開始されることはありません。おそらく、奏者の技術に頼らずとも楽曲がカノンであり、それが重なってだんだん大きくなるのがわかるよう作曲したのではないでしょうか。

また、バウアー=レヒナーの記録で「マーラーは作曲の際に先にこの楽章の第二部を思いついており、その前に置かれる開始部を考えていたときに、必要としていた保続音(※和声進行とは全く無縁に同一音を保ち続けること。一般的に主音か属音。)を ブルーダー・マルティンのカノンから感じ取ったので、急に思い立ってこの旋律を使うことにした、とのことだ。」とありましたので、このカノンにおいてマーラーが感じ取った保続音はD-mollにおけるDの音でしょう。ティンパニと旋律がほぼ絶えずどこかでDの音を鳴らしています。第一楽章冒頭でAの音がずっと鳴っていたのに対し、この楽章ではDの音です。明るく希望に溢れた一楽章と対比されていますね。

ちなみに皆さん意外とお気づきではありませんが、この「ブルーダー・マルティン」も「歌曲」です。第一楽章でも歌曲「さすらう職人の歌」が第二主題になっていましたので、やはり共通点があります。

なんとなく聴いている分には第一楽章から第三楽章までの共通点に気づきにくいですが、四度やオスティナート、歌曲主題ばかりであることを見抜けると楽曲全体が一貫したテーマで構成されているのがわかります。

<第一主題>Bruder Martinの対旋律(A’)の提示(3~5)

カノンの最中にObによる鋭い旋律が出てきます。これは「ブルーダー・マルティン」の対旋律だといわれています。音やアーティキュレーションは異なりますが、以下の赤枠と青枠でリズムがそっくりだからです。
また、経過音・刺繍音等の非和声音を除けばD-F-AのD-mollの主和音で構成されていること、「ブルーダー・マルティン」がスラーで構成されているのに対しほとんどスタッカートと装飾音符・テヌート等のアーティキュレーションで構成されていること対旋律であることを裏付けます。

この対旋律(A’)はこの楽章内で頻繁に現れ、時として主旋律のようにもなりますのでとても重要です。重々しい葬送行進曲に出てくるひょうきんな旋律のため、「アイロニー」の一部とも考えられます。

楽譜の表記にetwas hervortretendとありますが、意味は「やや突出して」です。Obはpですが、音を小さくしすぎると周りの楽器が増えているカノンにかき消されてしまいます。ここではObの対旋律も重要なのでそのような表記になっていると推察されます。この対旋律が何を表しているかの確定的な情報がありませんが、以下に説を提示します。

α. 葬送行列のニワトリのモチーフ説

この対旋律の部分を「狩人の葬送」における「葬送行進中のおどける動物たち」のテーマ(弔旗を掲げたウサギや、クマ、キツネ、ウサギ、オオカミ、ツルとヤマウズラ、歌う小鳥等の野生動物)とする説があります。1906年前後にテオ・ツアッシェ(Theo Zasche)によって描かれた風刺画「交響曲第一番を指揮するマーラー」には、このメロディーと共にニワトリが描かれています。

Wikipediaより

この説の補強材料としては上記の風刺画の他に、第一楽章に「カッコウのテーマ」があったのでその対比と考えられることや、何故ニワトリかという部分ではユダヤ教の贖罪の儀式にニワトリを使うカパロット(Kapparot)という儀式があることが挙げられます(カパロット参考:そんなテルアビブ★イスラエル★)。また、C.サン=サーンスの動物のカーニバル第2曲「雌鶏と雄鶏」(元はP.ラモーの「めんどり」)の装飾音型に似ていることも挙げられます。サン=サーンスは「死の舞踏」でもObに夜明けのニワトリの声をさせていました。

ただしニワトリ説への反論としては、テオ・ツアッシェは画家でありマーラーの音楽をどこまで理解していたのか不明なこと、マーラーは自身をユダヤ人と認識していたもののカパロットを行うほど敬虔なユダヤ教徒だったかわからないこと、動物のカーニバルの作曲はマーラーと同時期ですが初出版はサン=サーンスの死後であること(死の舞踏は1875年初演なのでマーラーが聴いている(指揮している)可能性あり)、自然をモチーフにした交響曲だとしたらニワトリは自然じゃないことが挙げられます。

なお、小澤征爾さんは「深い森の奥で鳥が予言をするような不思議な音色が、メロディーにどことなく妖しい風合いを与える」と表現したらしいです(クラバートの樹より)。 小澤さんとしては鳥でしょうか。

β. ユダヤフォークミュージック説

マーラー自身は「ブルーダー・マルティン」を「すごくダメな音楽バンドが葬送行列でいつもやっているように物憂げに演奏している」というイメージでしたので、この対旋律も「ユダヤ楽隊」のもの、ユダヤフォークミュージックという説も提起できます。

ユダヤ音楽を調べていた際に見つけてしまったユダヤのフォークミュージック「イェヴァレヘハ(Yevarechecha,Yevarekhekha)」(意味は神は祝福を授ける。英語。)に似ているなぁとも思いました。(参考:カズのFolk Dance Database。その他Youtube1,Youtube2)。なんとなくリズムが似ているというだけなので、いくらなんでもこじつけか…という気もしています。

この説をとる場合、楽章の最後がブルーダー・マルティンではなくこの旋律でおわることについては「葬儀は終わったが、悲痛な感情から抜け出せない主人公が口ずさんでいる描写」といった解釈になるでしょうか。ただ、何故ここでフォークミュージックなのかという疑問は残ります。

γ. 主人公の心情(この世の苦悩と悲惨さ)説(アイロニーのテーマ説)

これは「ブルーダー・マルティン」の対旋律であることに注目し、葬送行列の対にいるのは「主人公」であるため「主人公」の心情を表現したと考えるものです。この説の補強要素としては、マーラーの説明にある「この世の苦悩と悲惨が、強烈なコントラストと酷いアイロニーで彼(主人公)を掴んで離さない。」がこの部分を表しているという推測があります。また、 この楽章の最後がこの対旋律だけになってしまうのですが、 主人公の心情と考えれば第四楽章に突入する直前(第三楽章の一番最後)まで使われているのは納得できます。
マーラーの楽曲後半の説明でも「鋭いアイロニー」という表現が出てきており、この対旋律を指している可能性が高いです。つまり、マーラーはこの対旋律をアイロニーの象徴、「アイロニーのテーマ」としている可能性があるのです。

ちなみに、マーラーは交響詩と呼んでいた頃から演奏の度に微妙に解説を変えていましたので、 「絶対にこれだ!」と確定できるものはないかもしれません。上記の説以外の可能性も十分にありえます。引き続き情報を収集したいと思いますが、どの説を採用するにせよしないにせよ、曲の後半でもこのテーマは「ブルーダー・マルティン」と一緒(あるいはティンパニのD-Aと一緒)に現れ、かつ主題のようにも機能しているため、葬送行進と深いつながりがあります

なお、本記事では「主人公」のストーリーに着眼した解釈が中心ですので、一応 γ. 主人公の心情(この世の苦悩と悲惨さ)説(アイロニーのテーマ説)を中心に解説を進めていきたいと思います。ここでは4小節で消えますが、すぐにEsクラリネットと一緒に出てきて対旋律が確保されます。

それでは以上の部分を聴いてみましょう。

当然ですが指揮者によって解釈が違うので演奏の聞こえ方も異なります。私は上記の演奏は「遠くから近づいて主人公の目の前を通り離れていく葬列(主人公の心情描写はない)」に聞こえ、対旋律は主人公のものではなく「葬列の演奏」に聞こえます。または「死んだ狩猟者を意気揚々と運ぶ動物たち」のほうがそれっぽいかもしれません。対旋律も「鳥の声」みたいですね。この演奏はバーンスタイン氏の指揮なので、小澤征爾さん(バーンスタイン氏の弟子)が対旋律を 「深い森の奥で鳥が予言をするような不思議な音色」と称した点からもバーンスタイン氏が「鳥の声」を意識していた可能性が高まります。

【第二主題部B1&B2】

<第二主題>主人公の悲嘆(追悼)(B1)(5~6)

葬列が少し落ち着くと、D-mollの和声的短音階(楽典.com)に近いが異なる旋律がオーボエで始まります。また、その後ろでトランペット(後にホルン)がその対旋律のようなものを演奏します。

まず音階についてですが、この部分の音階は少々特殊でユダヤ人の音楽「クレズマー」クレズマースケール(またはフリジアン・ドミナントPhrygian dominant scaleも参照)が使われていると考えます。なお、Bbが主音に見えますがクレズマースケールに当てはめると主音がAになります。つまり、A-moll(クレズマースケール)になると思われます。D-mollの属調ではないでしょうか。ただしこれが正解かは不明で専門家に聞かないとわかりませんので、さらなる調査と考察が必要かと思われます。一応本記事ではA-mollとして進めたいと思います。

旋律についてですが、オーボエに始まるユダヤ教の礼拝yedid nefeshのような動きの旋律(赤枠)と、トランペットに始まる♪3つ♩2つの音型(緑枠)に分かれており、それが入れ替わったりします(以下図)。これは後でヴァイオリンが動きの旋律、管楽器が八分と四分の音型で再現されます。3小節目のオーボエのようなG→E、A→Fisは長6度の跳躍で、「愛の6度」なんて言われたりします(参考:フルートとクラシック音楽好きの人に)。

上記画像にはありませんが、5の直前に曲全体にRit.指示のあと、5にa tempo Ziemlich langsam の指示が来ます。この a tempoはRit.の打ち消しだと思われます。実際のテンポ表現は Ziemlich langsam (かなり遅く。このZimelichは「実は結構~なんだ」とか「確かにかなり~なんだ」のニュアンスで使われるので、100%ではないが100%に近い「かなり」です。)なので、「LentoじゃないけどほぼLento」くらいのテンポになると思われます。

オーボエとトランペットのausdrucksvollは表情豊かにという意味合いですが、演奏する際はこのメロディーはどんな表情なのか一考する必要があると思います。

この場面はマーラー曰く「恐ろしいほどにつらい主人公の悲嘆」の場面ではないかと思います(ここ以外に主人公の悲嘆が見当たらない)。音階がユダヤのクレズマースケールなのは、おそらく「恋人の葬送」を目の当たりにした主人公がユダヤ教のYedid Nefesh…意味は「ソウル・メイト」つまり「運命の人」と歌い、愛の6度跳躍で愛を叫んでいる場面…という解釈ではいかがでしょうか。

なお、以前NHKの番組でH. ブロムシュテット氏はこの部分を「ユダヤ人はその迫害の歴史から悲しい音楽が多い。この部分はユダヤ楽隊が葬列で悲しい音楽を流す場面だ。だから大げさに。」みたいにいっておりました。クレズマーバンドは悲嘆な曲→明るいリズミカルな曲の流れで演奏することもありますのでその可能性もありますし、葬列中に死者を悼む哀歌の可能性も0ではないですが、直後に突然明るい音楽が割って入るのは流石にわざとらしい気がします。また、クレズマーバンドではクラリネットかヴァイオリンが必須ですがここでのメロディーはオーボエです。さらに楽譜上でパロディー(Mit Parodie)だと言っているのは次の6からですので、「悲しげなユダヤ楽隊」よりも「主人公の悲嘆」であってほしいと思います。

「主人公」のストーリーではなく「動物たちによるハンターの葬列」ならば、「動物たちが皮肉をもってハンターの死を大げさに悲しむ」とかの解釈もできるかと思います。

<第二主題>クレズマーバンド(B2)(6~7)

先ほどの「主人公の悲嘆」の途中に、Mit Parodieとして Es管クラリネットの旋律と弦楽器の弓の木の部分で弦を叩くコル・レーニョ奏法が同時に現れます。Esクラリネットとコル・レーニョの使用は、交響曲においておそらくベルリオーズ「幻想交響曲」以来でしょう。

ここはユダヤのクレズマーバンド(ユダヤ楽隊)を表していると言われています。 マーラーが言う「恐ろしいほどにつらい主人公の悲嘆と同時に、この世の無作法・お祭り騒ぎ・陳腐さが、ボヘミアの楽隊が割って入るサウンドであらわれるんだ。」 の場面です。パーカッションも「シンバルはバスドラムの上に固定して一人で演奏する」という指示があるため、明らかに葬列で練り歩くクレズマーバンド(役割的にはチンドン屋のようなイメージ)の模倣がなされていると思います。

ここの調性は通常のA-durが基になっており、微妙に和声的長音階かクレズマーのA-durが混じっている気がします。一応まとめてA-durとしていますが、調性に関してはまだまだ学習中でありあまり自信はありません。今後変更することも十分にありますのでご注意ください。

解釈ですが「ボヘミアの田舎では慣習的に葬式に吹奏楽が使われ、終わった後に楽しげなポルカや行進曲を響かせながら近くの飲み屋に向かって行くのが常だった」聖光学院管弦楽団「(170) マーラーの交響曲と実用音楽」より。)とあるように、主人公の悲嘆を放っておいて明るい音楽で飲み屋に向かう周囲の人々を表しているのではないでしょうか。突然割って入るのが何よりの描写だと思います。 是非メロディーラインは「お酒飲~むぞ~♪店に行っくっか~?♪」みたいな歌詞で演奏してほしいものです。
なお、「主人公」達の葬列は終わってない(中間部の後に「戻ってくる葬列」がある)ので、もしかしたら同じタイミングで行われた別の葬列が飲みに行くのかも?しれません。

動物たちの葬列としても「陽気なクレズマー音楽を演奏する動物たち」でしょう。いずれにせよこの部分も「アイロニー」とも考えられます。

ちなみに、パロディーは「批判や揶揄等の何か意味を含ませた模倣」という意味で使われることが多いですが、もとは「形式を模倣」のことで、音楽においては単なる「引用」という意味でもありました(Wikipedia。ここでは、「クレズマーバンド」の模倣か「幻想交響曲」の模倣、あるいはその両方でしょう。

ただ、ここでは幻想交響曲のような骨のぶつかる不気味な音よりも、コル・レーニョの説明にあるとおり、どちらかというとハイドン・モーツァルト・ショパンのような「民族的な雰囲気を演出する打楽器的な音色として」用いられていた可能性がとても高いです。ですので、演奏するときも不気味な音として意識するよりは民族打楽器として演奏した方がよいと思われます。

また、Esクラリネットとコル・レーニョを同時に使うことでベルリオーズの「幻想交響曲」のパロディーだった可能性も十分にあります。ただ、ここではベルリオーズを尊敬してオマージュしたというよりも、「自分の好きなEsクラリネットの使い方はこうだ!」という反骨精神によるもののような気がしています(本記事の「マーラーとEsクラリネット」におけるマーラーの発言に基づき)。そういう意味ではまさにパロディーと言えるでしょう。

なお、7に入る直前に第一楽章で用いられた「カッコウの経句」のようなものが一瞬現れます。

参考:klezmerband.comよりWhat is “Klezmer Music”?

<第二主題>主人公の悲嘆(追悼)(B1)とクレズマーバンド(B2)の再現(7~8)

カッコウの経句に続いてヴァイオリンが少しためた後、先ほどはオーボエとホルンによって分かれていた悲嘆(あるいはyedid nefishのような追悼)の旋律がヴァイオリン(とトランペット)によって完全な形でながされ、一方で管楽器が上昇・跳躍音型を行います。

7の後半部分では再度クレズマーバンドが現れ、この7~8にて5~7が反復(確保)された形となります。主人公としては悲嘆にくれているけれども、周囲の人はお構いなしに飲みに行く。そんな感じを印象付けているのかもしれません。

<推移部>クレズマーバンド(B2)の転調・下降(8~9)

クレズマーバンドのモチーフ(B2)が短調になり(図赤枠)、さらにだんだん半音下降のように下がってD-mollに向かっていきます。ここは第一主題に戻るための推移部としてみることができます。

クレズマーバンドのモチーフ(B2モチーフ)

一方、HrやFgが半音上昇(青枠)するのが対比(コントラスト)となっています。楽しげな長調だったものが短調のようになり、さりげなく冒頭のD-Aのオスティナートも現れて(緑枠)主部AのD-mollに戻ります。

Vnに出てくる以下のフレーズは、赤枠がクレズマーD-mollで青枠が通常のD-moll(旋律的短音階)ではないかと思っており、クレズマーから通常のD-mollに戻る橋渡しの役割をしているのではないかと考えております。青枠から赤枠への中間部分は半音下降です。この音型は後半でも現れます。

【第一主題部A&A’】

<第一主題>ブルーダー・マルティンと対旋律(A,A’)の再現(9~10)

今迄のようなカノンの要素はほぼありませんが、第一主部Aとしてブルーダー・マルティンが戻ってきます(赤枠)。また、ここではオーボエではなくヴィオラとチェロで対旋律が現れます(青枠)。オスティナートリズムやブルーダー・マルティンの音価が伸びていき、だんだんゆっくりな雰囲気を醸し出して「二つの青い目」に上手くつながっていきます。

冒頭の要素に戻ることで、葬送やアイロニー(皮肉な状況)は終わっていないことを表しています。


「二つの青い目」につながる部分については、「二つの青い目」と比較しましたのでご覧ください。同じ色が同じ要素で、ほぼ一緒なのが分かります。この後の中間部もほぼ「二つの青い目」と同じです。

中間部Ⓑ(10~13)

ここではマーラー自身の歌曲「さすらう職人の歌(Lieder eines fahrenden Gesellen)」の第四曲「二つの青い目(Die zwei blauen Augen)」より、後半部分が丸々引用されています。

調を変えて楽器を変えてはいるもののほぼ「二つの青い目」が丸々引用されており、C-D-Cのような三部形式になっているとは言えません。調性もそこまではっきりしている部分ではありませんので、やはり「複合三部形式の中間部」というよりは「単なる中間部」と見た方がよいでしょう。なお、練習番号は3つに分かれておりなんとなく調性感はありますので、調性だけ見れば一応三部になっています。

この「二つの青い目」を持つのは「主人公」の恋人で、葬列で送られた恋人を主人公が偲んでいる(思い出している)シーンです。

このあたりはベルリオーズの幻想交響曲第四楽章の「断頭台で処刑される主人公(若い音楽家≒ベルリオーズ本人)が恋した人を思い出す(そして処刑される)」という流れに類似していると思います。マーラーも四楽章で地獄のような絶望に入るので、ベルリオーズを意識していたか幻想交響曲が非常に印象に残っていたかでしょう。

動物によるハンターの葬列の解釈の場合は、ハンターの安らかな眠りでも表しているのでしょうか。

二つの青い目 後半部(10~11)

この部分に原曲の歌詞を足すと以下の様になります。

原曲との聴き比べては以下です。調性は第三楽章がG-dur、原曲はF-durになっています。

歌詞と意味は以下です(歌詞はWikipediaより)。 なお、原曲歌詞のUnter dem Lindenbaum,の部分(Flの動きのなかで歌われている部分)は本楽章では省略されています。

Auf der Straße steht ein Lindenbaum,
(街道のそばに、一本の菩提樹がそびえている。)
Da hab’ich zum ersten Mal im Schlaf geruht!
(その蔭で、はじめて安らかに眠ることができた。)
Unter dem Lindenbaum, der hat
(菩提樹の下、)
Seine Blüten über mich geschneit,
(花びらが私の上に雪のように降り注いだ。)

二つの青い目 後半部(11~12)

第三楽章11のメロディーに歌詞を足すと以下のようになります。ここでは歌詞の省略はありません。

こちらも聴き比べてみてください。調性は本第三楽章がC-mollやC-durの入れ替わりのような不安定なもので、原曲もBb-mollやBb-durの入れ替わりのような不安定なものになっています。この調の変化については不安と希望で揺れる心みたいな解釈ができると思いますが、本第三楽章においては「主人公」の恋人との想い出なのであまりこだわる必要もないように思います。

歌詞は以下です(歌詞はWikipediaより)。

Da wußt’ich nicht, wie das Leben tut,
(人生がどうなるかなんて知りもしないが、)
War alles, ach, alles wieder gut!
(全て—ああ—全てが、また、素晴らしくなった。)

二つの青い目 後半部(12~13)

ここもメロディーに歌詞を足すと以下のようになります。ここでも歌詞の省略はありませんが、厳密にはこの部分のObもHrも原曲のObとHrと同じであって、独唱パートと音が被っているという程度であり、特に独唱の様に演奏する必要はないと思われます。ただ、アクセントのアーティキュレーションは独唱をイメージした方が分かりやすいでしょう。

聴き比べは以下です。調性は中間部最初のG-dur(最後はG-moll)に戻っています。原曲ではF-dur(最後はF-moll)です。

歌詞は以下です(歌詞はWikipediaより)。

Alles! Alles, Lieb und Leid
(全て! 全てが、恋も、苦しみも、)
Und Welt und Traum!
(現(うつつ)も、夢も!)

この一番最後はG-durから同主調G-mollの和音への転調になっており、その次は元のD-mollではなく半音高いEs-mollのロンド主題部に突入します。

このG-mollからEs-moll(Es-Bbのリズム)への転調はEsもBbもG-mollの構成音(G-mollの3度がBb、6度がEs)なのでそこまで違和感はなく、G-mollトニカ(G-Bb-D)の転回されたDから半音上のEsにあがることで解決感がある(和声のV-Iに解決感があるのは半音進行が含まれているから、と同じ意味)という効果もあるため決して無理な転調ではありません。

この調の半音上げも、聴衆が「D-mollに戻るかな?」という予想を裏切るという意味で「アイロニー」の一環と捉えることもできます。

なお、Flで演奏されるこの音型は、「二つの青い目」前半部(冒頭)でまさに曲のタイトルでもある「Die zwei blauen Augen」と歌っている音型と同じです。

ロンド主題部Ⓐ’(13~16)

【第一主題部A&A’&C】

ここでEs-mollで冒頭の第一主題に戻ります。「主人公」は恋人との思い出から、恋人のいない現実に引き戻されます。

マーラーはこの部分以降について「葬送行列が埋葬から帰ってくるとき…つまり美しい中間部の後に現れる鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニーには聴く者を震撼させる。そして、葬送バンドは(ここで骨の髄まで染みとおるような)いつもの陽気な曲を演奏し始める。」と説明しています。

<第一主題>ブルーダー・マルティン(A)と対旋律(A’)(13~14)

<第一主部>ではD-mollでしたが、ここでは半音上がってEs-mollになっています。なぜ半音上がっているのかの根拠はありませんが、以下の可能性は検討に値すると思います。

マーラーとしてはこの部分を「葬送行列が埋葬から帰ってくるとき…つまり美しい中間部の後に現れる鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニーには聴く者を震撼させる。」と表現していましたので、葬送行列が埋葬を終えて戻ってくるシーンを表していると思います。行きがD-moll、帰りがEs-mollということなので、半音上げた調にすることで最初とは違うシーンであることを表現しているのかもしれません。

調の違いのほかには、冒頭よりもユニゾンで演奏する楽器が多いこと(その分強弱指示がpppだったりします)、カノンが一度しかないことが挙げられます。
冒頭同様に2小節カノン(赤枠・青枠)が始まるかと思いきや、対旋律(緑枠)を始めるという流れです。また、冒頭ではObのpだった対旋律がかなり強調されているという点です。ここではEsClがfで対旋律を演奏します。keckは「大胆に」「決然と」「思い切って」ですが、他の意味に「生き生きと」 「ふてぶてしく」「生意気に」もあり、どの程度思いきるのか少し不明瞭です。すぐpに落ちますが、楽器が増えているので結果的に大きく聞こえます。

指示に「Wieder etwas bewegter, wie im Anfang」とありますが、意味は「冒頭のように、また少し動きをもって」です。冒頭のように葬送行進ではありますが、葬式が終わり棺を運んでいないから「少し動きをもって」なのでしょう。

対旋律を「主人公の心情」(アイロニーのテーマ)で解釈する場合には、このシーンは葬送から戻るけれども「主人公」は悲嘆から抜け出せない状況を表しているかもしれず、むしろ現実に引き戻されてより悲しみが強まっているのかもしれません。ただし、keckの意味の取り方では少し異なる解釈になるかもしれません。

※何度も言いますが指揮者によって解釈が違いますのでこの動画がそう聞こえるかはまた別の話です。

マーラーのいう「鋭いアイロニーと無思慮なポリフォニー」は具体的にどこを指しているか判断に迷いますが、やはりこの13~15をざっくり示していると思います。前述のとおり「鋭いアイロニー」は前半でも「酷いアイロニー」として出てきたように対旋律のことで、「無思慮なポリフォニー(カノン含む多声音楽)」は、対旋律のほかにブルーダー・マルティンや次に現れる新たな主題等複数のメロディー(声部)が無造作に一気に出る14~あたりを指すと思われます。さらに、マーラーはこの後に「いつもの陽気な曲を演奏し始める」と解説しており、「いつもの陽気な曲」が15~16または16以降を指している可能性があるためです。

<第一主題><終結主題>カノンの終りと新たなテーマ(C)(14~15)

引き続きFlがmfで対旋律(A’、赤枠)を、HrとHpがブルーダー・マルティン(A、緑枠)を演奏しますがカノンは終わっています。普通に聴いているとなかなか気づけませんが、ここで対旋律とブルーダー・マルティンの順番が入れ替わります。さらにブルーダー・マルティンと同時にTpによりコラールのような新しいテーマ(青枠)が出てきて、ブルーダー・マルティンの優先順位がここで下がります。

このTp主題は今までのように何かを元にしているのでしょうか。全音にテヌートがついているので、中間部のように歌曲に基づいている気もしますが調べきれませんでした。

このTp旋律が出てくるのはこことこの後の16の各要素の集合部分のみ、かつこれを演奏するのは三楽章通してTpだけです。曲も後半に来ているのに新たな要素を出すのは大抵後で使うためですので、ここではコーダ(コデッタ)に現れる終結主題を先に提示しておく、という意味合いで出てくるのだと考えられます。なお、ここで終結主題としていますが、第三主題でもTp主題でもコラール的主題でも何でもよいと思います。主題ではなく、Tp旋律という呼び方でもよいのかもしれません。そのあたりは高度な専門知識を持つ方にご意見を伺いたいところです。

この先の16をコーダまたはコデッタと見るかは議論の余地がありますし、コーダが曲終わりではなく内側に入り込んでいるのにも異論があると思いますが、マーラーはしばしば順序の入れ替え(第一楽章の主題の位置の入れ替え)を行っていますし、 第一楽章では今まで別の曲のテーマを引用していたのに突然コデッタにて新しい主題を放り込むこともしていましたので、絶対にあり得ないことではないかと思います。

【第二主題部B2】

<第二主題>クレズマーバンド(B2)(15~16)

前半にはあった「主人公の悲嘆(追悼)」(B1)を飛ばし、クレズマーバンド(B2)が前半のA-durよりも半音高いBb-durで現れます。

それもすぐに終わり、そのあと半音低い短調のクレズマーA-moll(Aジプシースケール参照、赤枠と青枠の交互)の動きがVnや管楽器で演奏され、A-mollだった「主人公の悲嘆(追悼)」(B1)に戻るのかと見せかけます。

この管楽器のバラつき具合は、非常にややこしいですが各Vnの音に1つ以上の管楽器が対応しています。この画像を作るのは面倒だったので、作曲家のみなさんはこんなことしないでください。

ここにもコル・レーニョの指示がありますが、アスタリスクで「Anmerkung für den Dirigenten, Kein Irrthum! Mit dem Holz zu streichen」と書かれています。意味は「指揮者のためのメモ。間違いではありません!木(弓部分)で弾くこと。」です。これはコル・レーニョ・トラット(col legno tratto)と言われるような奏法です。コル・レーニョでは効果音として聞こえても実音では聞こえにくいため、そのような奏法を用いたのでしょうか。

コーダまたはコデッタⒸ(16~17)

この部分は【第一主題A】と【第二主題B】と【終結主題】が全て同時に演奏され、強弱的にはこの楽章の中で最も盛り上がる部分でもあります。

【第一主題部A】【第二主題部B】【終結主題部C】

<第一主題><終結主題>行進に戻ると見せかけて(16-1)

直前のクレズマーA-mollの動きはVnがコル・レーニョで和音を作っていましたが、全1stVnがarcoでA-Gis,Gis-AのクレズマーA-moll動きだけになります(青枠)。A-mollだった「主人公の悲嘆(追悼)」(B1)に戻るのかな、と匂わせつつD-mollの「ブルーダー・マルティン」(A,緑枠)及び先ほど新しく現れた「終結主題」(赤枠)も出して、終結主題で行進をすると見せかけます。

<第一主題><第二主題><終結主題>全テーマの集合(16-2~17)

ここで木管合奏がf(フォルテ)で割り込んできます。音量といい楽器の数といいテーマの数といい、ここがこの楽章最大の見せ場でしょう。ここで用いられるテーマは「ブルーダー・マルティン」(青枠、第一主題)、おそらく「主人公の悲嘆(追悼)とクレズマーバンド」(赤枠、第二主題)、先ほど現れたトランペットの「終結主題」(紫枠)の3つです。

「ブルーダー・マルティン」(青枠)はD-mollで、 14~15で出てきたトランペットのモチーフ(終結主題、紫枠)がD-mollの和声的短音階で出てきます。一方、木管楽器のクレズマーバンド(赤枠)はクレズマーA-mollとも普通のD-mollともつかない微妙な調で始まります。しかし赤枠の後次第にD-mollに集合し、緑枠で全員が本楽章の主調である通常のD-mollに落ち着きます。

木管楽器群のAusserst rhythmisch. は「非常にリズミカルに」、かつplötzlich viel schneller(いきなりとても速く)のテンポ指示なので、クレズマーバンドを表していると考えられます。ただし、メロディーは今までに出てきたフレーズではありません。以下の図(この部分のメロディーは一番下)を見ると、最も近いのは「主人公の悲嘆(追悼)」(B1、上から3つ目)であるでしょう。つまり、楽器の音色やテンポ的なノリはクレズマーバンド(B2)、メロディーは「主人公の悲嘆(追悼)」(B1)を基にミックスした2つの<第二主題>を表したようなものだと思われます。

以上を踏まえると、これで第一主題・第二主題・終結主題とも一度D-mollに落ち着き、コーダあるいはコデッタのような終結が行われたと見ることができます。

なお、「主人公」のストーリー的解釈は、もしかしたら「そして、葬送バンドは(ここで骨の髄まで染みとおるような)いつもの陽気な曲を演奏し始める。」「いつもの陽気な曲」のテーマなのかもしれません。「主人公」以外は葬送から日常に戻って「葬式は終結」というわけです。

ロンド主題部Ⓐ(17~最後)

< 第二主題>主人公の悲嘆(追悼)(B1)(17~18)

先ほど全員が通常のD-mollで落ち着きすべてが終わったと思いきや、オーボエによってクレズマーD-mollの「主人公の悲嘆(追悼)」(B1)が再現されます(クレズマーDはミュジオリー音楽理論ジプシースケール参照)。先ほどの終結部でB1を模したメロディーは出ていましたが、メロディーも調性もどうにもあやふやなものでした。ここで今までA-durだったB1がちゃんと主調のD-moll(クレズマーですが)となり、第二主題の再現が終わります。

「主人公」のストーリー的には、どんなに周りがいつもの様子に戻ろうとも「主人公」は悲嘆から逃れられない(恋人がいない現実の)様子が描かれているでしょうか。それとも主調であるD-mollになることで悲嘆が確実なものになってしまったのでしょうか。

<推移部>クレズマーバンド(B2)の転調・下降(18~19)

前半の8~9と似たような箇所ですが、Vn、Fl、ClあたりのメロディーラインがA→Gis→G→Fis→F→E→Es→Dのような半音下降で冒頭ブルーダー・マルティンの普通のD-mollまで下がっていきます。VaやE.Hはその五度下の音(三度上の転回)で半音下降していきます。

この推移部のメロディーラインこそ半音下降ですが、調性的にはクレズマーD-moll(青枠)→普通のD-moll(緑枠・旋律的短音階)→半音下降(紫枠)→クレズマーD-moll(青枠、クレズマーD-mollで主和音→属七和音が2回)→そして19の普通のD-moll(緑枠)へ、という流れになっています。基本的には四分音符でD-Aが繰り返されている中での音楽なので、D-mollの範囲は離れません。和声関係については気になったときに調べる程度しか学がありませんので、詳細が判明次第修正いたします。

ここは前半8~9と同じ流れですが、前半にはあったFgとHrの半音上昇がありません。上昇がないのはストーリー的及び音楽的に終盤かつどん底の四楽章に向かうためだと思われますが、ストーリー上の大きな意味よりも、クレズマーD-mollから普通のD-mollに戻るための形式と調性を整える推移部分ではないでしょうか。

<第一主題>ブルーダー・マルティンの対旋律(A’)(19~最後)

9~10と似たような構成ですが、対旋律は息切れするように途切れ途切れでいろいろな楽器に分散します(赤枠)。また、前半では二分音符の和音だった箇所がバスクラリネットによるD→Aのみに変わっており(青枠)、楽器が少なくなっています。19からどんどん音が低く、小さく、楽器も少なくなっていき、チェロや最後のコントラバスの2回のPizz.のDまでどん底(四楽章の冒頭)に落ちこんでいく様子が描写されます。一応バスクラリネットのAを受けてコントラバスがDの音を出す(緑枠)ので、A→Dでドミナントからトニカに行く解決感(または楽曲の終り感)が出ています。ただし、ppで2つの楽器しか演奏していないので、「終わったー!」というよりは「終わった?」くらいの感覚でしょう。また、楽譜に「Folgt sogleich No.4(すぐに次の第四楽章へ)」とあるように、すぐに次の楽章が始まります。

足音(TimpやPizz.のD-A)は聞こえますが、もはや葬送(ブルーダー・マルティン)は聞こえてきません。なぜなら葬儀は終わり、他の民衆は飲みに行ってしまったからです。一人取り残された主人公は地獄のどん底へ向かいます。行進のようなD-Aの音価はどんどん伸びていくので、主人公の足音がどんどん立ち止まりそうになる様子を表しているのかもしれません。


↓動画:第三楽章通し

◆あとがき

相変わらず膨大かつ複雑でした。また、情報が少なすぎて確実な情報をみなさんにお伝え出来ないのが心苦しいところです。

第三楽章は「聴いたことがあるメロディーで親しみやすい(何故か短調だけど)」「楽しそうなリズムが出てきて聴いていて楽しい(何故かいきなりだけど)」というように、耳なじみが良い割には意外と「何故?」が潜んでいる音楽だったように思います。

第一楽章と同様ですが、楽曲の解釈については「理屈と膏薬はどこへでもつく」というようにあるいは「○○オタクが勝手に解釈する」 ように後付けできてしまうことが多く、本記事も可能性を提示したにすぎず、真実や真実に近しいものを提示できたとは思っておりません。マーラー本人がどう思って作曲していたのかは残された楽譜と数少ない資料以外に知る方法がありません。ただ、それでも第三楽章だけの情報がほとんど書籍にもインターネットにもありませんので、少しはお役に立てるのではないかと思っております。

オーケストラは何人ものプレイヤーがおり、その一人一人が解釈や意見を持っており、それを一時的に統一するために指揮者がいるのだと思っています。私の解釈は指揮または音楽づくりの1つの提案にすぎませんが、その中で本記事が「第三楽章は好きだけどなぜ○○なんだろう?」と思っている方への理解や解釈の一助になれば幸いです。是非、ご自分が納得できる解釈を取り入れて音楽をお作りください。

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