ヨアヒム・ラフ – 知られざるスイスの大作曲家、解説と名曲選!(音源付き)

こんにちは、H. Châteauです。クラシック好きの間でよくされる質問は、「一番好きな作曲家は誰ですか?」です。私はこれを聞かれたときに、必ず答えます。「ヨアヒム・ラフ」と。

みなさん、今頭の中で「誰だそれ…知らない…」「最近の作曲家かな?」「映画音楽家?」と思いましたか?いえいえ!れっきとしたバリバリのロマン派クラシックの作曲家です!今日は、知られざる大作曲家、ヨアヒム・ラフをご紹介するとともに、この作曲家の魅力を広めて日本のクラシック音楽界でももっと取り上げてもらえるようにしたいと思います!

1.ヨアヒム・ラフとは

スイスの作曲家、ヨーゼフ・ヨアヒム・ラフ(Josef Joachim Raff, 1822年~1882年)は19世紀ロマン派の作曲家です。

ヨアヒム・ラフ

生涯(Wikipedia等のまとめ)

幼少~青年期

ヨアヒム・ラフの父(フランツ・ヨーゼフ・ラフ; Franz Josef Raff)は音楽教師で、ナポレオンのロシア遠征(チャイコフスキー「1812年」にあるロシアとフランスの戦いのこと)に対する徴兵から逃れるために、1810年にドイツのヴュルテンベルクからスイスに移り住み、シュバーツ・カントン(カントン=自治州)でカタリナ・シュミット(Katharina Schmid)と結婚し、1817年からは校長として働いていました。

1822年5月27日ヨアヒム・ラフがチューリッヒ湖畔のシュバーツ州ラーヘンで生まれました。父の校長の収入ではヨアヒム・ラフは満足な学校教育を受けられなかったようですが、一時期は父の地元ヴュルテンブルクに送られて哲学、文学、数学を学んでいたようです。その後やはり家の財政難もあってスイスに戻り、シュバーツ州で学校教育を受けていました。幼少期のその間にもヴァイオリンやピアノ、オルガンなどを練習しており、ヌオレン(ラーヘンの隣町)で日曜日にコンサートに参加していたようです。

1822年生まれということで、フェリックス・メンデルスゾーンの13歳下、フランツ・リストの11歳下、リヒャルト・ワーグナーの9歳下、セザール・フランクが同い年、2歳下にベドルジハ・スメタナアントン・ブルックナーがおります。ヨハネス・ブラームスは11歳下。世代としてはフランク・スメタナ・ブルックナー世代です。
1822年はベートーヴェンの晩年で死去の5年前、ピアノソナタ第30番第31番、最後の第32番を作曲した年でもあります。

セザール・フランク ベドルジハ・スメタナ アントン・ブルックナー
左からフランク・スメタナ・ブルックナー

ヨアヒム・ラフは18歳で教皇使節の公式の通訳となり、1840年にラッパースヴィル(ラーヘンの対岸あたり)で教師もしましたが、ラフ自身は音楽を志していました。ラフは基本的に独学でしたが、初期の作品から才能を発揮していました。チューリッヒの若手作曲家、フランツ・アプトと友人になった後、1843年に彼の勧めでピアノ作品をメンデルスゾーンに送り、メンデルスゾーンの推薦で、1844年に初期の曲がブライトコプフから出版されました。ロベルト・シューマンも、ラフのピアノ作品を高評し作曲に専念するよう促す寄稿をしたともいいます。それを受けて、1844年に22歳で教師を辞めてチューリッヒ(ラーヘンが面しているオーバー湖・チューリッヒ湖の北端)へ移り作曲家になりましたが、ヌオレンで開催したコンサートは失敗し、貧困になります。

幼少期から基本的に貧困に面していたようですね。

青年期(リストとの出会い~リスト助手時代)

1845年(23歳)、スイス・バーゼル(チューリッヒから北西に約6~70km)でフランツ・リストの演奏会(当時リストは34歳。リストの演奏旅行の途中?)があると聞いたラフは、雨の中、お金がなかったので徒歩で演奏会に行きました。残念ながらチケットは売り切れていましたが、リストの崇拝者からその話を聞いたリストは、ラフをコンサートホールに連れていき、ステージに特別席をつくったとのことです。その後、リストはドイツ南部の演奏ツアーの残りにラフを一緒に連れて行きました。ツアー後、リストの計らいでドイツ西部・ケルン(チューリッヒより北400kmくらい)の音楽店に勤めます。この頃メンデルスゾーンに会い、彼の元で勉強するためライプツィヒに行く計画がありましたが、メンデルスゾーンが1847年に亡くなったため中止となり、代わりにドイツ南西部・シュトゥットガルト(チューリッヒから北に120~30kmくらい。)に赴いて生涯の友となる指揮者ハンス・フォン・ビューローに会ったりしました。

1846年頃のリスト

 1850年(27歳)にリストはラフをドイツ中央部・ワイマール(ケルンから東に150kmくらい。)に招待し、ラフは秘書や助手としてリストの曲のオーケストレーションをしていました(例;交響詩「タッソ」第2版。第3版はリストが再オーケストレーション。)。なお、リストの助手になった頃にはすでにラフにはオーケストレーション能力があり、逆にリストのオーケストレーション能力は初期段階であったため、リストにとっても価値のある期間だったと考えられています。

ラフにとっても、このリストの曲のオーケストレーションで名声は得られなかったものの十分な経験となりました。1851年(28歳)の彼のオペラ「アルフレッド王, WoO.14(Opera: König Alfred)はリストの指揮で初演され、成功を収めました(ただし大成功ではなかった模様)。そして1854年(32歳)ワイマールでラフは彼の最初の大交響曲(Grand Symphony)WoO.18を作曲(5楽章構成、紛失。ただし、うち2つの楽章は「管弦楽のための組曲第一番 op.101」に使われる。)しました 。リストの元を去るまでの約6年間でピアノ曲を中心に様々な曲を作っています。

青年期~晩年(リストから独立~作曲家として評価)

その後、ラフの財政悪化や、リストとラフの関係が徐々に悪化したため、1856年(34歳)にリストから独立してドイツ中央部・ヴィースバーデン(ケルンとシュトゥットガルトの間くらい。)に行きピアノ教師となりました。ヴィースバーデンではオペラ「アルフレッド王」の数度の再演による成功がありました。1859年(37歳)に妻ドリスと結婚し、彼女の倹約と経営で財政諸問題が解決されました。1860年(38歳)にピアノと管弦楽のための春への頌歌(Ode au printemps) Op.76が出版され、ハンス・フォン・ビューローによって熱狂的に取り上げられラフの実力や名声は高まりました。1861年(39歳)で作曲した交響曲第一番「祖国に寄す( An das Vaterland)」Op. 96(IMSLP)が1863年(41歳)のウィーンのコンクールで32作品中1位となりました。作曲者としては評価されるまでに遅咲きだったといえるでしょう。

1880~1894年のいずれかのハンス・フォン・ビューロー

ラフは多様なジャンルで大小さまざまな楽曲を作り、コンサートや家庭の音楽(サロン音楽)で人気を博していきました。1859年(37歳)で作曲したヴァイオリンとピアノのための6つの小品 Op.85(IMSLP)の3曲目の「カヴァティーナ」はラフの最も人気がある曲の一つで、長い間親しまれ演奏されました。1862年(40歳)に作曲したのピアノ五重奏 Op. 107(IMSLP)はベートーヴェン以来最もすぐれたものの一つとして評価されました。交響曲は聴衆から敬意を持って聴かれ、1869年(47歳)で作曲した交響曲第三番「森の中で(Im Wald)」Op. 153(IMSLP)、1872年(50歳)で作曲した交響曲第五番「レノーレ(Lenore)」Op. 177(IMSLP)は19世紀後半の交響曲の中で最も人気のある曲の一つになりました。特に交響曲第五番のマーチ楽章(第三楽章)は最も愛された曲の一つで、それ単体で演奏されることもあれば、ブラスバンドやピアノデュエットに編曲されて演奏されました。1874年(52歳)の作品弦楽四重奏曲第七番 Op.192(IMSLP)も頻繁に演奏されました(特に第二楽章)。

ラフの作品のほとんどは、拠点としていたヴィスバーデンで初演され、ときに自ら指揮をしていました。当時のラフの名声は世界中に広がっており、ブラームスやワーグナーのような当時の最高の作曲者の一人と認識されていました。しかし、ラフのオーケストレーション技術は際立っておりメロディーメーカーとして称賛されていたとしても、批判者がいないわけではありませんでした。
ラフに対して「オリジナリティーよりも他の作曲家のスタイルの統合が多い折衷主義者」というような批判や、「彼の音楽適正は交響曲や協奏曲よりもむしろサロン音楽の小品にある」というような意見もありましたが、ラフは対立を楽しみ特に批判者を納得させるようなことはせず、成功を重ねるにつれて尊大になっていったようです。

このヴィ―スバーデンで1877年(55歳)まで教師をしながら作曲活動しました。

晩年(ホッホ音楽院時代以降)

1878年(56歳)、ラフは中央ドイツ・フランクフルト・アム・マイン(ヴィ―スバーデンから東に10kmくらい)のホッホ音楽院Hoch’sche Konservatorium。現フランクフルト音楽・舞台芸術大学)の最初のディレクターになり、 約4年間教育者およびディレクターとして活躍しました。ラフの働きかけでピアノ科教授にクララ・シューマンが、歌の教授にジュリアス・シュトックハウゼンが就き、ホッホ音楽院は国際的に評判になりました。ラフは教育活動をしながらも作曲を続けました。

ホッホ音楽院

ホッホ音楽院

1882年(60歳)、ラフは若いころから心臓病を患っていましたが、妻や同僚が体調を心配する中仕事を減らすことができず、6月25日の朝にフランクフルトのアパートで心臓発作で亡くなりました。2日後、ラフはフランクフルトのハウプトフリーホフ(墓地)に埋葬されました。ラフの記念碑はフランクフルトの墓地と、生誕地のラーヘンにあります。

参考

Joachim Raff / Outline of Raff’s life

Wikipedia(英語) / Joachim Raff
Wikipedia(ドイツ語) / Joachim Raff
Wikipedia(フランス語) / Joseph Joachim Raff
Wikipedia(イタリア語) / Joachim Raff
Wikipedia(日本語) / ヨアヒム・ラフ

2.ラフの作風・傾向(ほぼ私見です)

オーケストレーションの傾向

ラフの傾向としては、特にオーケストラ曲(交響曲、協奏曲、管弦楽曲等)で木管楽器をメロディー系統に使用する頻度が高く、ベートーヴェンやブラームスにある弦楽器の重厚さより、比較的色鮮やかさが出ていると思います。印象としては、シューマン・メンデルスゾーン等のドイツロマン派の流れに与しつつ、楽器の特性を生かして鮮やかさを加えた感じでしょうか。ラフの後に続くブラームスよりは、オーケストレーションにおいては華やかなイメージがあります。

一方、時代背景もあったと思いますが特殊楽器の使用が少ないなど、それを多用したラヴェルのような魔術的な色鮮やかさには及ばなかったりします(といってもラヴェルはラフの半世紀後の人物です)。木管楽器や金管楽器の使用本数も基本的に伝統的なオーケストラと同じなのでワーグナーやリヒャルト・シュトラウスほどの重厚さも少なく感じます。逆に伝統的なオーケストレーションでここまでできるのか、とも思います。そういう点から考えると、ラフのオーケストレーションは伝統的オーケストレーションの完成形だったともいえるでしょう。リストが彼を助手にし、チャイコフスキーがラフを手本にしていた(後述)ことからも伺えます。

このため、ラフが活躍していた当時は各楽器の特性を生かした非常に成熟していたものだったでしょう。このオーケストレーションがあったからこそ、ラフの後に活躍するチャイコフスキーやドヴォルザークの個性が磨かれたのだと思います。

ラフの個性

ドヴォルザークやチャイコフスキーのような民族色は際立てて強いわけではなく、そういう面の個性ではいま一つ物足りないかもしれません。実際、ラフの楽曲には後のチャイコフスキー・ドヴォルザーク等に現れる民族性(ラフはスイス出身なのであまり民族的でなくても当然かもしれませんが)や、彼の前のベルリオーズやリスト、後のマーラーやリヒャルト・シュトラウス等に比べてしまうと特にリズム(突然のリズム変化や旋律の不思議なリズムが少ない)や構成(突然の転換等が少ない)において独創的な部分は少ないように思います。このため、個性的な楽曲を好む方からは「面白味にかける」という評価になってしまうように思います。しかし、それこそが逆に「聴きやすさ」を表しているともいえましょう。

どの曲も破綻することなく纏まっており、オーケストレーションもバランスがよく鮮やかです。いうなれば、ラフは伝統的クラシックの完成形ではないでしょうか。ただし、古典派の完成形という意味ではありません。特に交響曲においては標題音楽が多数を占めていますし、ロマン派の初期世代であるメンデルスゾーン・シューマン・リスト・ワーグナーの影響をがっつり受けているのでロマン派であることは間違いありません。ラフは2管編成と構成で当時の伝統的クラシックを維持したのではないかと思うのです。その「王道」から「異端者」として革新していったのが国民楽派や印象派、マーラーやリヒャルト・シュトラウスといった新星だったではないでしょうか。

なお、ラフに個性が物足りないという意見があるものの、それはおそらく歳の近いスメタナや10~15歳年下のロシア5人組を始めとする国民楽派が台頭してきたからという理由もあるでしょう。ラフの個性は民族色よりも自然をテーマに選ぶ自然の作曲家という位置づけがしっくりくると思います。スイスで生まれ育ったラフはアルプス山脈や湖が身近にあったためでしょうか、楽曲に自然を意識したものが多いです。特に交響曲などは、標題交響曲の大部分が自然と関連付いています
例えば交響曲第3番「Im Wald」は「森にて」、交響曲第7番「In den Alpen」は「アルプスにて」、交響曲第8番「Frühlingsklänge」は「春の響き」、交響曲第9番「Im Sommer」は「夏に」、交響曲第10番「Zur Herbstzeit」は「秋の時に」、交響曲第11番「Der Winter」は「冬」です。

ラーヘンの街とチューリッヒ湖

宗教音楽や祖国(ドイツ)の音楽(交響曲第1番「祖国に寄す(An das Vaterland )」、組曲「チューリンゲン」他)もありますが、それよりもラフを形作ったのは母国の自然に触発されて生まれたかのような美しいメロディー職人的なオーケストレーションでしょう。ブラームスが交響曲第一番(1876年)を完成させるまでにかかった約20年間に、ラフはその技術をもって7つもの交響曲を出しています。その時期に交響曲を多く出していたのはあとはブルックナーくらいでしょうか。1860~1875年あたりの15年間の交響曲はやはりラフが席巻していたと思われます。

ところで、ほとんどの作曲家の曲には何かしらこだわってる個性的な音型やスタイルがあることが多いです(ショパンのようなピアノで完結するスタイル、ドヴォルザークの付点のリズムや汽車のようなリズム、チャイコフスキーの繰り返される長い上昇・下降音型、ハチャトゥリアンの小フレーズの繰り返し、イベールのヘミオラ、プーランクの異常な明るさとメランコリーさの入れ替わり等々)。しかし、ラフにおいては「また出た!」という音型やフレーズがそんなに多くありません。この点も、他人に個性を印象付けるという意味では薄かったのかもしれません。

他の作曲家からの影響

ラフは明らかに自然を意識した作品を作っており、その点ではベートーヴェンの交響曲第6番「田園」への意識が伺えます。その他にもバッハ・ベートーヴェン・シューマン・ワーグナーの楽曲を編曲している(IMSLP / As Arranger)ことや、モーツァルト「ドン・ファン」の想い出ワーグナー「ニュルンベルクのマイスター・ジンガー」の想い出「セビリアの理髪師」のモチーフによるファンタジーを作曲していることから、その作曲過程で学ぶことはあったでしょう。しかし、こと日本においてはラフの楽曲についてあまり研究が進んでいない(or 研究が進んでいたとしてもその資料や書籍を目にする機会が少ない)ため、楽曲内にどの程度他者のモチーフが取り入れられているかはわかりません。ラフはワーグナーの崇拝者でしたが、ブルックナーやマーラーのように明らかにワーグナーのモチーフを取り入れた交響曲等はあったのでしょうか。

最も影響を受けたのは助手としてオーケストレーションを手掛けていたこともありフランツ・リストだったことは間違いないでしょう。実際、構成等にリストの影響も見られます。ただ、ラフの秀作はリストの元を離れてからの1860(40代前後)~1870(50代後半)年代のものが多いため、明らかにリストを意識したものは少ないようにも感じます。どの曲も全体的に安定感があり、成熟されているように感じます。

ラフには当時「オリジナリティーよりも他の作曲家のスタイルの統合が多い折衷主義者」という批判があったことは生涯の項で前述しましたが、どの作曲者のスタイルを統合していたのか一見してわからないあたりもある意味彼の技術なのかもしれません。

他の作曲家への影響

ラフの認知度が低いためにクラシック音楽界における彼の貢献の程はほとんど語られませんが、その卓越した作曲スキルと作品数は確実に後進組に影響を与えていました。

山の作曲家、近藤浩平のページでは「一旦、ベルリオーズやリストで完全に崩壊するかに思われた交響曲が、暗示的標題と雰囲気をもちながら4楽章の古典的交響曲様式を保ったロマン派の交響曲という形で、チャイコフスキー、ドヴォルザークや数多くの周辺作曲家において1880年代ころから息を吹き返すことに、ラフの交響曲は重要なモデルとなっているのではないかと思われてならない。」とありますが、私はこの意見に大いに賛同します。
実際、ラフは1870年代と80年代にモスクワとサンクトペテルブルクで頻繁に演奏されており、チャイコフスキーはラフを大いに参考にし、評価もしています。チャイコフスキーはラフについて「才能の強さと独創性の面でルビンシテインに比べてかなり劣っているが、ラフは技術的な職人技、形式の全体を達成する能力、構成要素の細部から取り組む能力において彼を凌駕している。」と述べていました(Raff.orgより)。 また、チャイコフスキーの作品には、チャイコフスキーを”ラフィアン”と呼んでもよいくらいラフから影響を受けたものも多く、交響曲第5番ではラフの交響曲第10番から引用もしています。
(以下2019.7.1調査及び追記
チャイコフスキーが交響曲第5番にラフの交響曲第10番から引用しているという情報は、Raff.orgの交響曲第10番のページに記載されています。具体的にはラフ第10番第三楽章のファゴットから始まるテーマがチャイコフスキー第5番第二楽章冒頭のホルンのメロディーに引用されているようです。個人的に比較してみましたが、確かに似ているもののリズムが異なっていたりフレーズ全体ではなく後半部分が似ていたりするため、「まるまる引用した」というよりは「フレーズを参考にして取り入れた」くらいの印象のように思いました。)

このように、ベートーヴェンやベルリオーズの交響曲(~1830年頃)、シューマンやリストの交響曲(~1860年頃)の後、ブラームスやドヴォルザーク等の有名交響曲作家が出てくる1870年後半までの空白の10~20年間をラフが埋めていたとの意見もあります(山の作曲家、近藤浩平のページより)。ラフの管楽の「シンフォニエッタ」を参考にしてグノーの「小交響曲」ができる等、他にも様々な作曲家に影響を与えたと思われますが、現代では特に日本での研究または普及が進んでいないのか、情報が不足しています。より詳細な研究(と翻訳)が進むことを心待ちにしています。

ところで、グスタフ・マーラーは交響曲を9つ書いたら死んでしまうというジンクス「第9の呪い」を気にしていたといわれますが、ベートーヴェン以降(かつマーラー以前)で交響曲を9曲以上作曲した作曲家はこのヨアヒム・ラフが最初です。マーラーはラフのことを知っていたと思いますが、ラフの交響曲第10番が書かれた1879年でマーラー19歳のとき。マーラーが第9の呪いを意識する1908年(大地の歌作曲時期、マーラー48歳)頃は他の様々な偉大な交響曲が溢れかえっていた時代であり、さらに録音技術もなければインターネットで調べることもできない時代。ラフは忘れられたのかもしれません。

総論

当時のアイドル演奏家・リストと、音楽において革新的なワーグナー及び当時の楽壇がワーグナーとの対立をあおったブラームスあたりの間に位置してしまったため、ラフは前後の存在が強烈すぎて現在ほぼ忘れられてしまっていますが、ラフの曲はどの曲も王道的クラシックの聴きやすさがあり「聴いたことがないけどカッコよくて聴きやすい曲」と感じるほどです。

個人的にラフの楽曲で短調の曲は全体的に美しい気がします。彼が若いころ財政難やなかなか芽が出ないことへの苦労がありそして後年に結婚や名声を得たように、短調から解放されて長調になる部分が抑圧からの解放感やすがすがしさを醸し出しておりとても好きです。

名曲選は次のページからです。

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